論文を読んだ。
小児期のADHD診断は、青年期のQOL改善にはつながらない。らしい。
じゃあ、診断する意味ってなんなんだ。
病院にかかる意味ってなんなんだろう。
こんな論文がありました。
発達障害の診断は大事だ。
確かに、僕もそう思う。
でも、一概にみんながみんな、診断があった方がよいわけではないと思う。
僕の個人的な意見。
むしろ診断には(ってことは投薬にも)慎重な立場をとっている。
診断するならその先を見据えて
と思っている。
こんな論文を見つけた。
- 小児期にADHDと診断された人と、
- その傾向はあるが診断されなかった人。
両者のその後を追った研究だ。
どうだろう。
どちらが幸福度が上がるだろうか。
どう思いますか?
診断がついたほうが、その後の対応がしやすく、自己理解も上がり、ハッピーだろうか。
診断があれば治療の選択肢が出てくるし、有益に働くだろうか。
それとも案外、そうでもないのか。
論文によると、
診断された人のQOLが高いってわけじゃない
らしい。
むしろ、未診断の人より幸福度が下がる項目もあったり。
もちろん、この結果を全て鵜呑みにするわけではない。
単一の研究だし、サンプル数が少なかったかもしれない。
診断群と対照群で、ホントに特性の程度が同じだったかも気になるし。
外国の論文だから文化も異なるだろうし。
青年期までしか追跡しておらず、大人まで追ったらまた違った結果が出るのかもしれないしねー。
ただ、僕はなんとなく納得してしまった。
小児期から青年期に関していえば、僕の実感としても診断はQOLを上げない。
数年前に他院で診断を受けた子。
年齢が上がり、やっぱり困って久しぶりに医療にかかった、つまり僕のところへ来たわけだが。
こんなケースで、「診断がサッパリ活きてないなこりゃ」と思うことは少なくない。
僕自身がADHDと診断したケースでも同様だ。
求められて診断はつけたけど、そこで止まってしまうケースは散見される。
診断した意味あったの? と思ってしまうケース。
診断がうまく生きるとは限らないと、マジで思う。
自分のものとして深く理解し、実生活に応用するって、マジで難易度が高い。
みんながみんな、できるわけじゃない。
子どもだもんで
この研究もそうだが、子どもに限った話だ。
大人の診断ではその限りではない可能性がある。
ってゆーか、その可能性はむしろ高いと思う。
その上で。
子どもなのだ。
子どもは大人と違い、
- 自分を客観的に知ろう。
- 生まれ持った脳の特性を知り、社会適応にいかそう。
などと考えることは、まずない。
ってなもんだろう。
目の前の困りごとに困っているに過ぎない。
まだ、本質と向き合う段にはないのだ。
じゃあその特性を知り、注意して生きて行こう。
↑ここまで考えられるなら、その人は非常に大人。
それなりの人生経験を要し、つまり、それなりに年齢がいっているハズなのだ。
個人的には、自分をちゃんと客観視できるのって30歳前後からなのかなーと思っている。
脳科学的に、そのあたりで前頭葉が完成するらしい。
他の人と自分の違いを客観的に認識し、アイデンティティーが確立する時期。
つまり、「大人」になるのは30歳説だ。(個人の見解です)
ってことで、子どもには基本的に、この発想がない。
人と違って僕はーとか、考えない。
考えても表面的で、本質的ではない。
目の前のことに全力で生きるのが、子どもの悪いところであり、良いところでもある。
↑こんなことに全力投球なのね。
ってことは。
「診断を自分ごととして捉え、客観的・合理的に創意工夫して注意を凝らす」なんて、
できっこねぇ!!!
できるのは、せいぜい「今」「目の前」の困りごとへの対応だ。
短期的なQOLは上がるかもしれないが、長期的なそれには適応されない。
「自分はADHDだから、明日使う絵具セットを今日のうちに靴の上に置いておこう」
は、できるかもしれない。
でも、来週必要な習字セットは、きっと忘れる。
多分忘れる。
かなりの確率で忘れる。
いや、忘れるに決まっている。
むしろ忘れないハズがない!
そういうことだ。
これが、子どもの限界だ。
丁寧な伴走を
医療の力は小さい。
診断をしても、なんなら投薬をしても、その人の幸福度をそこまで上げない。
そんな気がする。
なぜ、診断がQOLを上げないか。
レッテル貼りや偏見、「どうせ変わらない」と思ってしまうこと、診断に気を取られて個々の問題が見えづらくなるなど、あるのかもしれない。
そんなものが、投薬のメリットを相殺して余りあるのかも。
わかんねーけどさ。
結局、丁寧な伴走しかないのだろう。
その子の『玉』を見ること。
診断があろうがなかろうが、その子自身をよく観察することだ。
困りごとに丁寧に対応すること。
自己肯定感をへし折らないこと。
そして、将来を見据えて本人の自己理解を促すこと。
これが大事なのであって、医療や診断はミジンコ並みの力しか持たない。
そう。
結局、本人が自分で気を付けるしかないのだ。
自己理解して、自分で工夫するしか。
だから、大人の診断ではこの限りでないだろうっていうのは、そういうこと。
大人が自ら診断を求めたのなら、きっとその後の幸福度に大きな影響がある。
だって、自分で動いたのだから。
自分で自分を知ろうとしているから。
でも、残念ながら、子どもにはコレができない。
まとめ
診断はQOLを上げない(気がする)
この論文はADHDの話だが、ASDも同様に思う。
診断だけ宙ぶらりんでぶら下がっていても、ハッピー度は上がらないか、むしろ下がる。
診断がなくても、周囲の大人がその子の『玉』をよく見てフォローなり環境調整なりすれば、ハッピー度は上がる。
大事なのは、診断じゃなくてそっちだ。
※もちろん診断を否定するわけじゃないです。診断して、かつ本人をよく見れば、めっちゃいいと思います。当然、診断なしで放置はダメだし。
医療って『点』の関わりだ。
そうじゃん?
たかだか月に1回、短時間会うだけの間柄でしょ?
そうじゃなくて、真に大切なのは『線』の関わり。
家庭なり学校なり、連続してその子を見て、安定してフォローできる間柄の人が、最も影響を与える支援者である。
医療なんて足元にも及ばないなと思い知らされる。
多分忘れる。
かなりの確率で忘れる。
いや、忘れるに決まっている。
むしろ忘れないハズがない!
↑これ、大人になってもやってます
忘れないハズがないって…爆笑でしたがその通りです
子供2人が不登校となりスクールカウンセラーに相談にのってもらったところ、「お母さんが多分ADHDだね」と言われかなり合点がいきました。
思えば自分で気をつけていれば、自分の不注意がなければ防げた事柄だらけの人生でした。
子供達により気付かされたのです。
私よりも子供の方がずっとずっと私のことを知っています。玉を見てくれ、教えてくれます。
いつもブログありがとうございます。
丁寧な伴走の方はがわかりません。
「玉」を見ようとしても、私の見方が合ってないみたいなのです。
息子が何かに忘れ物でも失くし物でもなんらかつまづいた時の取り乱し様がひどいです。
何か言ってしまえば火に油を注ぐので静観することにしていますが、明らかに酷すぎるのです。
雑談に雑談を重ねて、調子の良い時はなんの問題もないのに。
玉をよく見るのって難しいです。
診断に頼りたくなってしまいます。
自分の見方が間違っていたら、息子に申し訳ない。
面白ーい、勉強になるー(*´ω`*)
診断あった方が他人への説得力は増すのかなーと思いつつ、診断あろうがなかろうが「その人にあった対応」を出来るのが一番なんだけど、そこが本当難しいんだよなーと思います。
大人30歳説、しっくりきます。20歳の時の自己理解と30過ぎてからの自己理解の差は経験値によるものかなと思っていたけど、前頭葉の発達の側面からもそうなんですね。
知識が豊富な人の話聞くのオモロー!(*´▽`*)
いつも、本当にありがとうございます!
夏休みの終わりが近付いて、親子でテンション下がり気味、、な今日この頃です。
診断名に振り回されて周りの大人(特に私!)がブレて良くないことが起きてると思うことも多いけれど、診断名が付いてないから怒られまくってるのかな、と見える子もいたり、本当にケースバイケースだな、と思います、、。
「その子をよく見る」
親になろうとする人、子供に関わる仕事に就こうとしている人に、一番最初の、基本中の基本として、誰かに説いてもらいたい!です。
子供だけでなく、大人も、それぞれの個性・特性として思いやりを持ってお互い関われれば、みんなハッピーなのにな。
“ニューロダイバーシティ”という考え方?を知って、しっくりくると感じました(ちゃんと勉強した訳ではないので、医療界での位置付けなど分かりませんが、、)。
世の中も少しずつは変わっているところもあるような無いような?いずれにしても、まだまだ、と思うと、まずは、親が本人の困り事を(困らせてるのでなく困ってる、も、ちょいちょい忘れがちな未熟な親です‥‥)よく見て一緒に成長していきたいです。
これからも楽しみにしています!
2歳3ヶ月から療育心理で心理士さんの助けのもと育ててきました。親の私が早い段階で心理士さんと巡り会えたことで、彼を育てる取説を教わることができて、そのおかげで無理させることなくここまできた(今6年生)と思っています。
なので、早期に専門家と繋がることは良いことだと思います。
担当の心理士さんは、診断名に拘らず本人を見ていくことが大切だと、最初の最初から説いてくれました。
薬も医者も心理士も親も、彼の人生にとってはお手伝いにしかならないと思っています。薬に頼りすぎず、診断名にぶら下がらず、彼自身が「なりたい自分」に向かって、あきらめずに追求していけるよう、長い目で見守りながら手助けしていきたいと考えています。
でもたまに、私の癇癪玉が破裂しますけどね。
いいかげんにせぇよ!ってね。
夏休みもあと1週間。いまだ夏休みの宿題すら終わりませんよ。
自由研究も大それたことしかやりたがらないし。
私がブチっとね。
派手にブッちぎれたばかりです。
そのおかげで、息子は、「昨日今日は」前向きに頑張っとります。
明日くらいからまた元に戻るかな…。
長い目で。
息子は今思えばASD、ADHD傾向がありましたが、発達障害とは気づかず「普通」を求める子育てをしてしまいました。その結果中学で不登校になり、やっと診断に至りました。もう少し早くわかっていれば、親や周囲の見方や接し方が違っていて、本人を追い詰めなかったかもしれないと思うこともありますが、診断が降りていたらいたで、療育などに奔走して結局無理させてたかもしれません。
紆余曲折を経て成人年齢となった息子はP先生のおっしゃるようにまだ自己理解が未熟ではありますが、自分の個性🟰玉と社会との折り合いをつけながら大学生活を送ることができています。障害の部分をクローズアップするのではなく、玉を見ること、唯一無二の息子自身を見ることを心がけています。これがいかに大切かをこの何年かの息子との激動の日々から学びました。玉を見る、このP先生の言葉がいつも心にあります。