最近、発達障害の話を耳にする機会が増えていると感じる。
学校関連でもそうだし。
「大人の発達障害」なんて言葉も、テレビやネットで見聞きする。
これ自体、僕は良いことだと思う。
自己責任や根性論で片付けず、生まれ持った特性に目を向ける風潮。
良いことだと思う。
発達障害が注目されるのは良いこと。
なんだけど、「それはちょっと違うんじゃない?」って思う部分があるので、ちょっくら書かせてください。
エセ発達障害?
「私発達障害だから、やるべき仕事がちゃんとできなくてぇー(チラチラ)」
「発達障害」という言葉が市民権を得ると、上記のような発言をする人が出てくることは容易に予想される。
だから頑張れないんだよねーしょうがないよねー
といったニュアンスが滲み出ていると、聞いている方は辟易してしまう。
エセじゃねーかよ!
ぶってんじゃねーよ!
わかる。
ちょっとムカつく気持ち、とてもわかる。
ファッションHSPに似ている。
で。
この流れから出てくるのが、
発達障害は、努力では克服できないレベルの超絶苦手であり、その程度では該当しない。
言い訳にして逃げるのはエセである。
本当の発達障害に対して失礼である。
といった主張だ。
コレね。
気持ちはわかるんだけど、そうでもないんじゃ?
と僕は思うのね。
発達障害の人、みんながみんな「絶望的にデキない」わけじゃない。
努力でなんとかなる人も、かなりの割合でいると思うのよ。
極端な思考が発達障害を追い詰める可能性
なぜこんなことを言うかというと。
上記の発言、気持ちはわかるんだけどさ。
逆に発達障害の人を追い詰めてない? と思うから。
「発達障害とは、努力しても壊滅的にデキない人である」
と考えちゃうと、救いがない病気みたいじゃん?
※もちろんどーーーーーしても出来ない人もいます。でも、出来る人もいますって話。
そう思い込んじゃうと、そりゃ診断されたくないし、カミングアウトもしたくないじゃん。
診断を避けるし、受け入れられない。
ってことは、本来受けられたはずの支援を逃す。
また本来ならやれるはずの作業も奪われて、成長の機会を失うし。
「どーせできないから」って、本人も周りも思っちゃう。
そうじゃなくて、その人にあったチャレンジをして、その人のペースで成長してほしいんだよね。
発達障害だって、当然だけど成長する。
経験し、失敗し、成功し、やがて成長する。
定型発達の人と一緒。
特に子どもは、これから成長する人たちだ。
ぜひチャレンジして、成長してほしい。
発達障害の線引き
何度か書いてるけど、発達障害ってシロかクロかの概念じゃない。
グラデーション状だ。
薄い人から濃い人まで、どこで線を引くかの問題だと僕は思っている。
例えば、ADHD特性だと。
ADHDの人は、忘れ物が多い。
でも、人間多かれ少なかれ忘れ物ってするもんで。
「急いでいるときにうっかり忘れ物をした人」が発達障害かというと、おそらくそんなことはないだろう。
誰にでもあるよねってレベル。
じゃあ、どのくらい忘れっぽければ発達障害なのだろうか。
10段階で考えてみる。
レベル0:絶対に忘れ物をしない人
これはADHDではなさそうだ。
レベル1:焦るとたまに忘れ物をする人。
これも違うだろう。
レベル3:焦るとしばしば忘れ物をする人。
これも「うっかりさん」で良い?
レベル5:焦らなくてもたまに忘れ物をする人。
これは怪しい?
レベル8:焦らなくてもしばしば忘れ物をする人。
この人はどうか?
レベル10:状況によらずほぼ必発。
この人は発達障害で良さそうか。
ね。
難しいでしょう?
どこまでが健常でどこからが発達障害でしょうか。
僕にはうまい線引きがわからない。
というのも、発達障害の診断基準は非常に曖昧だからだ。
- 症状が「著しい」って、どの程度を指すのか。
- 「しばしば」って具体的にどの程度?
- 「生活を妨げる」って、マジ主観なんですけど。
はっきりした線引きがあるわけではなく、主治医が総合的に判断しているにすぎない。
できることもたくさんある
だからね。
実際の発達障害の子をみると、努力や工夫ではどうにもならないから回避しようって子も、もちろんいる。
でも、工夫でなんとかなる子も多いんだ。
忘れものを例に出すと、
レベル8:焦らなくてもしばしば忘れ物をする人。
くらいの子に、工夫と注意を促すことはよくある。
「あなたは忘れ物しやすいから気をつけてネ!」って。
実際それで割となんとかなるし。
※診断するか否かはおいといて、「自分は忘れ物しやすい」って自覚することがマジ大切。自覚しないと工夫も注意もできない。
「日常の細々した提出物は忘れても、シャレにならないものはちゃんと出す」
を落とし所にする子も多い。
そして、ココがクリアできれば日常生活はさほど困らなかったりする。
なんとかなるんですよ。
でも、じゃあこの子が発達障害じゃないかというと、そんなことなくない?
工夫である程度のカバーは可能だけど、ADHDではあると思う。
ファッション発達障害にムカつく気持ちもわかるけどね。
できることはやらせる
僕自身「逃げる」を選びがち、勧めがちな自覚があるから(申し訳ない)、言いにくいんだけど。
発達障害でも、「戦う」という選択肢は全然アリ。
「発達障害だから全てできない」わけじゃないんです。
たたかう
にげる
上手に選択し、有利に進めてほしい。
0か100か、極端な思考になると、
- 自分は発達障害だから努力してもムダ
とか、
- 自分は努力でなんとかなるレベルなんだから、発達障害じゃなくて甘えだ
とかになりがち。
それってもったいなくない?
そうじゃなくて、
定型発達の人も発達障害の人もいて、
発達障害の種類も程度も人によって様々だし、
定型発達の人だって得意・苦手ってあるし、
空は青いしご飯は美味い。
くらいのユルさで良いと思う。
発達障害だから全くできない、なんてことはないし。
裏返せば、定型発達だからなんでもできるハズ、ってわけでもないってこと。
それぞれが自分の得意・不得意を把握し、いい感じにムリなく生きていけると良いと思う。
その一歩として、発達障害が一般に認識されるのは良い風潮だと、僕は思っている。
息子が小1の去年、視覚情報にすぐ気を取られるから、1番前の真ん中の席にしてもらっていました。
2年生になった今年、ふと、しまった先回りしちゃった、と思いました。
視覚情報で学べるなら、クラスメイトの行動を見て今やることを理解するチャンスもあったかもなのに、皆が一斉に動く時、息子の視界は担任の先生と黒板じゃん!と。
新学期の個人懇談で担任の先生に素直な気持ちを伝えて、席替えはお任せしました。もしそれで勉強が遅れたら、まだ2年生、家庭で全力サポートしますと。
任せる、コケさせる、学ばせる、親もトライ&エラーでやっていくぞと気持ちを新たにした春だったこと、先生の記事を読んでコメントしたくなっちゃいました。
障害だから・・・を理由に出来なくても当たり前という考え方になると困ると思い、精神障害手帳の申請を控えていました。
擬態出来るんじゃないかな?と。
家庭内だけだった問題が、聴覚過敏や様々な症状が出るようになり、周囲の理解を得やすい方が良いだろうと申請することにしました。
結果はまだ先なのでわかりません。
手帳の基準もないらしいから。
何が出来て何が出来ないのか
その線引きが難しい。
本人をその気にさせれば出来ることも
誘導をしくじると何も出来なくなる。
今日はしくじって学校に行く気を失わせてしまった。
上手く対応してれば、問題なく登校しただろうけど。
先生の言われる事はわかります。
でもね。
家庭内なら、学校なら、児童なら、やる気になるように配慮となるけれど
一般企業で仕事となると、その人のやる気が出るように対応するのは難しい。
本人が自己理解していて、出来る。出来ない。伝えられるなら良いけど。
P先生が以前書かれていた「視界の外はブラックホール」が鍵じゃないかと思います(ADHDだけじゃなくて、抽象的な意味で見るとASDもおんなじですよね)。
努力って、見えてないと、そもそもできないので。何が見えてないのかも自分だけではなかなかわからない事が多いので、診断やその後の医療や療育などから遠ざかるという事は、できるはずの、自分の意思でする努力の機会を失うかも知れませんね。
「頑張ってもできない人」になる以前に、「何を具体的にどう頑張ったらいいのかもわかってない人」になるのはもったいない。
定型発達って、いろんな事が6割から8割できる人達の事なんじゃないかと個人的に思ってます。だから、発達でできないって言われると、甘えるなって思うんじゃないかなと。
定型が有利なのは、例えば職場に勤め始めて、何かできない事があっても「ああ、これくらいはかつての自分も(あるいは同期の〇〇さんも)できなかった、そのうちできるようになるか、こんなところにつまづいているんじゃないか」と、一緒に働く人達に理解可能で、過去の自分を投影してもらえる事なのかも。人間の判断の基準は、自分が今まで知っているものなので。
それを考えると、自分だったらしない失敗をしてしまう後輩に、何が見えていなからこんな失敗をするのかを、先輩がきちんと把握して指導をしてくれる様に期待するより、早めに専門家にかかってサポートを受けられた方がラッキーなのかもしれませんね。
軽度なら、普段一緒に過ごす家族の観察と工夫で、割となんとかなる部分が多そうな気はしますし、地域の状況によっては、そもそも軽度では専門家のサポートが受けられない事もあるのかもしれません(ごめんなさい、発達障害の医療についても各種トレーニングについても、具体的な事は全然知らずにイメージで書いてます。P先生、せっかく書いてくださってるのだから、何かコメントあった方が張りが出るかなあと思って)。 気が付けば避けられる範囲の事を、知らずに気がつかず避けられないのは、もったいないですね。
・本人にできるのは、戦うか逃げる
・周りにできるのは、本人が何が見えてないか何ができてないかを冷静に観察しつつの暖かい見守り、プラス、本人がしたい事に対する、その観察を生かした上での具体的なサポート(←それが今成功するかどうかより、チャレンジしてよかったと思える様な)
なのかなあと思います。
今は逃げる、の選択肢もチャレンジの一つ。I will come backとか、I will be backとか、映画の主人公みたいですよね。