そろそろ進路決定の時期が近づいているでしょうか。
「受験校が決まらない」という話を耳にする機会が増えた。
学校見学はいくつか行ったけど、どの学校もステキな気がするし、イヤな気もする。
いまいちピンとこない。
その先の大学受験とか就職とかも視野に入れてみるんだけど、濃霧に包まれサッパリ。
適当に選んだらあとで後悔しそうだし……どうしたら⁉︎
人生の選択
人生は選択の連続だ。
いわゆる「普通」が合わない子にとっては特に。
他の子がするような「何も考えずとりあえず近くの公立高校へ」は危険だ。
「普通の人」(集団生活とか学校教育にうまく乗れる人)より、たくさんの場面でたくさんの選択を迫られることとなる。
その時に。
「オレは絶対この高校に行って、あの大学で経営学を学び、将来は公務員になって安定した生活を送るんだ!」
とか目標がある子は良い。
でも、それがない子。
目標は特にない。
将来の夢も決まらない。
自分に何ができるのか分からない、ってゆーか自分には何もなさすぎてヘコんでるところ。
でも、出願期限は着実に迫っている!
不本意でもなんでも、とにかく選ばざるを得ない。
人生にはそういう局面がある。
僕の進路選択
僕自身の話で恐縮だが、僕も「何も持たないタイプ」だった。
目標もない。
お金もない。
学力も人望も特技もなく、友達もいない。
夢も希望もあったもんじゃない。
そんな僕にも選択の場面は訪れた。
具体的には高校2年の秋、文理選択を迫られたのだ。
僕の通っていた高校では、高3の授業を自分で選択して組み合わせる必要があった。
困った。
このシステム、えげつないほど明確に「大学受験に必要な科目を自分で選択しろ」って意味だ。
でも僕には受験校どころか、受験するか高卒で働くかすら決まっていなかったのだ。(この高校では大学進学と就職が半々くらいの比率だった)
でも高3を履修しないと「高卒」の資格も得られないわけで、「高卒で働く」という選択肢もなくなってしまう。
とにかく選ばざるを得ない。
当時、僕の成績は地を這っていた。
でも現代文と理科だけはなぜか得意だった。
勉強してないのによく出来た。
むしろわからない意味がわからない。(うわウゼー)
だったらと得意な科目を適当に選択してお茶を濁そうと思ったんだけど。
「理系か文系かどっちかはっきりして!」
理系科目と文系科目はオモテウラで授業しており、同時に履修できないと。
理系か文系かとにかく決めろ、と命じられてしまった。
困った……。
現代文と理科が得意な僕は、文系か? 理系か?
……分からん。
じゃあ逆算して、どんな職業につくから、じゃあどの大学に入る必要があって、それにはどの科目が必要か考えよう。
……全然分からん。
当時の僕は腐り切っており、「あーあーどうせ自分なんてカスですよ、世の中のお荷物ですよ、どうせ僕が悪いんですよ生まれてきてすいませんでしたー」とか考えながら、クラスの陽キャを呪って細々と生きていた。
根性の腐った僕の最後のプライドとして、「何者にもなりたくない」という気持ちがあったのもまた事実。
目標がないのになんとなく進学や就職をして、そのまま流されて何者かに「なってしまう」ことに対する抵抗感があった。
「決まりません!」
胸を張って提出した選択科目希望調査票はあっさり返却され、再提出が急務となったわけだ。
困った。
非常に困った。
決めざるを得ない。
でも決まらない、決めたくない。
この時の僕がなぜこの行動に出たのか謎なのだが、ほとんど交流のない学年主任の先生に相談に行ったのだ。
追い詰められて、判断力がおかしかったんだと思う。
「あのぅ、進路が決まらないんです。
相談に乗ってもらえませんか……?」
もじもじ質問した僕に、学年主任の先生はこう答えた。
「あら! あなたは私の知り合いの水族館の館長先生に雰囲気が似てるのよ。
とっても楽しそうに仕事をしてるわ。
あなたも水族館の仕事がいいと思うわ。
水族館にしなさい!」
……なん……だと……?
水族館、だと?
考えたこともなかった。
ほとんど喋ったことのない学年主任の英語教師が、僕の何を見てそう思ったのかは不明だ。
でも追い詰められた僕は、『生物』『化学』『数学ⅡB』と書いて、選択科目希望を提出した。
理系を選んだのだ。
言われるままに。
人の脳を使う
で、(なんやかんや端折って)今に至る。
あの時の文理選択は正しかったか?
正しかったと思う。
30代の今、自分の適性を冷静に分析するに、どう考えても理系だ。
理屈っぽくて偏屈で、明らかに理系だ。
マッチー(先生のあだ名)、グッジョブ! としか言いようがない。
水族館には就職しなくてゴメンナサイ。
ほぼ喋ったことのないマッチーがなぜ、僕の特性を的確に見抜いたのか。
もちろんマッチーの人を見る目がとんでもなく優れていた可能性は否定できないが、でも思うに、人からの評価ってかなり的を得ていると思う。
僕は、自分では自分が文系か理系かの特性を把握できなかった。
でもマッチーはあっさり見抜いた。
霧の中にいる自分がアレコレもがくより、外から第三者が見れば一発なのだ。
余計な感情とかこだわりとか自意識とか期待とかが入らない分、ありのままを正確に評価できる。
このことは多くの場面で言えると思う。
他人の悩みって、「〇〇すれば解決じゃん」とかあっさり言っちゃいません?
別の会社のシステムとか「なんでこんなことしてるんだろう、変なの」って思いますよね?
正直、僕も外来で見ていて「大規模な全日制高校より少人数の定時制が良さそうなのになー」とか思うことはよくある。
外からはよく見える。
そして大体合ってる。
このことは、僕の座右の銘として、ってほどじゃないけど心に留めて生きている。
困ったら、人の脳を使う。
そして大体合ってる。
ちなみに今こころ・発達の分野の診療をしているのも、同僚に言われるがまま流されて開始したことだったりする。
僕に合ってます、よね?
一人で(または親子で)悩んで袋小路に入るより、責任のない第三者にぶん投げてみる。
すると、大体合ってる。
これは結構有効な人生策略だと僕は思っている。
P先生
不登校ASDタイプの息子が修学旅行から帰ってきました。
行きは、「不安しかない!最悪!陽キャメンバーと同じ班でやってけるかな?」
と不安と不満を垂れていましたが、このコロナ禍の修学旅行が隠キャASD気質には最高の日程になっており、私は「大丈夫!行ける要素しか無い」と説得。
だってバスガイド無し、バスの中でなるべくお喋り無しで皆んなでジブリ見てんですって!
皆んなでレクレーションで盛り上がるバスの密室だったらいたたまれなかったはず 笑
帰ってきて
ホテルの水がマジ美味しかったー
ホテルのご飯がマジ美味しかったー
ホテルの温泉マジ最高だったー
って言ってました。
班のメンバーともそれなりに過ごせたらしく
「行って良かった!」の一言がもらえました。
これは、コロナ禍での特殊な日程が逆に不登校ASD気質の子に上手く合致した例でした。
流れが来た時に(結構強めに押したけど)乗れるかどうかは普段からよく話しをしてたからだと思います。
経験をさせられた事が親側の自己満である事を理解して、
本人も私もこれを機に学校に戻る気持ちはありません。