苦手なことがある。
でも、見方を変えると「だからこその強み」とも取れる。
困るのはむしろ定型発達?
この話から。↓
発達障害特性があると、定型発達と比較して人の話が聞けない。
全員とは言わないが、その傾向はあるだろう。
子どもは特にそうだ。
よく相談を受ける。
そうなんだけど、でも実は僕、
あとあと困るのは定型発達の方じゃねーの?
とも思っている。
どういうことかというと。
大人になってさ。
僕、今、大人でさ。
大人の社会で、大人として生活しているわけだけども。
話が聞けねーの、むしろ定型発達じゃね?
と思うことが多々あるのだ。
もうさー。
『定型のゴリ押し』って表現したら、わかってもらえる?
その人の思う常識や前提条件をさ。
「普通こうでしょ」「当たり前でしょ」を、一分の隙なくゴリ押してくる感じ。
わかる?
特性のある人の方が、むしろ一歩引いて、俯瞰的に物事を捉える(よう努力している)ように思う。
僕もよくやるけど、「あれ、僕、今なんか違った?」という視点があるというか。
定型っぽい人の方が、前提条件が強固で、そこから動かない。気がする。
※個人差あります、もちろん。傾向の話です。
その人の属するコミュニティーではそうなのだろう。
言っていることは理解の範囲なので(彼らは定型発達なので)、まぁ分かるのだが。
別のコミュニティーではその前提条件、通用しないんですけど?
と思わされることがある。
その「いい感じフィルター」、通じるのは特定の場所だけやで⁉︎
僕だけ?
なんかねー、日々の生活でよく遭遇するんですよ。
世代、居住地、社会的階層、職業や界隈なんかに依存する前提を、ゴリ押してくる。
一歩ひいてくれない。
そこではそうなんだろうけども……ってなる。
例を挙げると特定のコミュニティーをdisることになっちゃいそうで差し控えるが。
- あなたの世代はそうだったんでしょうが。
- あなたの出身地ではそれが普通なんでしょうけど。
- あなたの会社では「そういうもん」かもしれませんが。
- あなたの業界の「普通」が絶対正義とも限らないのですが。
↑こういうの。
ない?
僕、めっちゃある。
じーちゃんの葬式での衝撃
あ、例えばで挙げて良い内容を思い出した。
僕のじーちゃんね、ド田舎に住んでいてですね。
僕は都会の生まれ育ちで。
ド田舎の文化、よく知らなくて。
で、じーちゃんが死んだときにね。
葬式が終わって、みんなでゾロゾロ浜に行ってさ。
浜? 葬式で、浜?
何をするかと思ったら、
浜辺で、みんなで縄跳びして。
持参した炊き込みご飯をカマ(漢字で書くと鎌。農業の道具。)に乗せて、海に放り投げたの。
僕、ぽかーん。
でもみんな真面目な顔して、順番に縄跳びして、炊き込みご飯投げてる。
いい大人たちが、喪服を着て、神妙な面持ちで縄跳びとご飯投げ。
僕の頭はハテナマークでいっぱい。
あれ、いつの間にか異次元に迷い込んだ???
あ、今度は故人の服を海水で洗い、ビニール袋に詰めた。
もう、意味分かんない。
意味分かんないでしょ?
ここ、日本やで⁉︎
でも、その場で意味分かんないのは僕だけで。
僕以外、全員わかる。
なので、みんなは僕が分かんないことが分かんないの。
当然すぎて。
よって何の説明も無し。
全然寄り添ってもらえない。
思ったねー。
どこからツッコめば⁉︎ と。
この地域では葬式って「こういうもん」なのだろう。
だが、全国的にこうではない。
これがここのコミュニティーに染まった人たちには通じない。
「当たり前」すぎて。
じーちゃんはここのコミュニティーの人なので、この送られ方で嬉しいだろうが。
じーちゃん、お達者で! (死んでるけど)
『常識』の塗り重ね
例えがよく分からなかったけれど。
とにかく、大人になればなるほど、年を経れば経るほど、定型発達の持つ「こういうもん」という感覚が強固になっていくように感じる。
「いい感じフィルター」が、その人の中で『絶対』になるというか。
多分、彼らは困らない。
その感覚で、困った経験がない。(定型だから)
「これが当然」「自分の感覚は正しい」が蓄積される。
で、「なんかこういうもん」がいつしか「絶対の、唯一無二の正解」に進化する。
この傾向は、年齢を経るほど、コミュニティーが同質で強固であるほど、強くなるように思う。
異なる価値観を受け入れない。
小児科だと、祖父母世代の赤ちゃんへの接し方とかねー。時代遅れのことを平気でする。目に余るときは確かにある。
常識とは18歳までに身につけた先入観のコレクションである。
アルベルト・アインシュタイン
18歳どころじゃない。
中高年にもなると、さらに凝り固まり、ヌリカベとなって我々の目の前に立ちはだかる。
この人たちが特定のコミュニティー内にいるときは、全然いいんだ。
価値観の通用するコミュニティーの中なら。
これは、なんの問題もない。
でも、そこから一歩出たとき。
前提条件を共有しない人と接した時に、困り感が如実に出てくる。
これね!
具体例は言えないけど、言いたいけど、でも言えないけど。
あるよね? ね?
大人になるとめっちゃ遭遇する。
前提を書き換えられない。
違った枠組みを受け入れられない。
自分とは異なる状況を想像できない。
大きな声じゃ言えないけど……ママ友とかね。
お宅とウチとじゃ状況が違うんだから、ほっといてくださる⁉︎ って。
ほら、ぐいぐいアドバイスしてくるママ友って、大抵視野が狭いから……。
子どもの発達関係の(それ以外でも)相談相手として、ママ友って超・不適だと、僕は考えている。
ファービーに相談する方がマシ。
で。
こういうのがさー……、結局、ペリーの正体なんじゃないかと思う。
ヌリカベ化した定型発達の、「こうあるべき」が。
善意の、でも状況にそぐわない「アドバイス」が。
コレが、弱った心にニュルリと入り込んでくるわけよ。
視野の違い
そう、視野が狭いんだよね。
定型発達の視野。↓
狭いじゃん?
実際はこう↓ なんだ。
世界は広いんだ。(ちなみにこれはASD的な視野だと僕は思っている)
この視野の違い、どちらが良い・悪いではない。
どちらにも良い面、悪い面はある。
でも、定型発達の視野をあえて悪くいうと、
勝手にトリミングしてフィルターをかけ、視野が狭い
と表現できる。
※もちろんASD的な視野も、「すべてが一様に強弱なくゴチャゴチャし、フォーカスが定まらない」とも表現できる。全ては良し悪しだ。
で。
ここからが大切で。
特性持ち(少数派)は、
定型発達(多数派)の視野は自分とは異なる
と自覚しやすいが。
定型発達は、
自分とは違う物の見方をする人がいる
とは認識しづらい。
多数派だからネ。
↑ここ!
ここって、見方を変えると発達特性持ちの利点、定型発達の欠点だよなぁと。
少数派ってめんどくさいけど、別の視点に気づきやすいという利点がある。
一歩引いたものの見方がしやすい。
もちろん、特性持ちはめんどくさい。
超めんどくさいよ。
少数派の感覚で、多数派の社会を渡っていくのだ。
マジでめんどくさい。
でも、世界は広い。
その広さに気づきやすいという利点もあるように思う。
少数派って、自分の偏りに気づきやすい。
不便ゆえに、工夫しやすい。
気づけば対応できる。
我々特性持ちは「定型発達の視野を意識して話を聞く」という努力が、大変だけど(そりゃめっちゃ大変だけど)、可能だ。
視野の違いに気づくから。
でも、気づかないとできない。
工夫も努力もできない。
定型発達の人が「この子(特性持ち)はもしかしたら全然違うふうに物事を見ているんじゃ」という発想を持つことは、逆パターンと比較し困難だろう。
だからこそ『定型のゴリ押し』は頻発する。
大人になると、むしろ生得的な発達特性よりこっちが困ってしまうことも多い。ように僕は思う。
マジで、「そのやり方が絶対の正義」じゃないんだよ、ホント。
特性持ちは不便だ。
困る。
大変だ。
でも、特性があるが故のメリットもあると思う。
気づきやすいというのは、めちゃめちゃに大きなメリットだ。
ここをうまく使うのが、我々の生きる道である。

