発達障害は、山に似ている
という表現を、どこかで聞いた。
よい表現だと思った。
発達特性と標高
曰く、発達障害は山のようなものだと。
この特性があるから、あなたはASD (ADHD、LD)です。
と言って良いものか。
二合目でも頂上でも、
ここは富士山
でくくっていいのか。
二合目って全然高くない。
富士山には違いないが、一緒くたに「山扱い」で良いものか。
遊園地(ぐりんぱ)あるらしいよ。
へー、行ってみたい。
どこまでが山か。
富士山は、何合目からが山か。
樹海は富士山か。
富士の裾野は、どこまでが富士山か。
山梨県と静岡県は、もうほぼ全域が富士山なのだろうか。
と、いうことだ。
要は、
診断ではなく、標高の高さ(特性の強さ)で考えましょう
ってこと。
忘れたけど、誰かが言ってた。
良い表現だと思った。
パクった。
誰かのアイデアをパクり、さも自分が考えたかのように使う。
人生における重要なライフハックである。
標高が高くても困るとは限らない
さて。
発達特性は、おそらくほぼ全ての人が持っている。
と、僕は思っている。
濃いか薄いかの違いだ。
まったくの定型発達など、存在しないのではないか。
発達障害の遺伝子って、200種類あんねん。(アンミカ)
どこで線を引くかだ。
どの子を発達障害とするか。
どの程度の標高から、山とするか。
ということだ。
発達特性の強弱って、標高に似ている。
特性の強さを、標高が高いことに例える。
標高がかなり高いなら、生活場面で困ることが予想される。
例えば、標高3000メートルの場所に住んでいる人。
多分、めっちゃ大変じゃん?
おそらくかなり険しい山の、かなり上の方。
道ないし、店ないし、人住んでないし。
電気ない、気候天候厳しい、野生生物や虫も危険、夜は真っ暗星きれい。
登るだけでも相当大変。
当然、Amazonもヤマトも佐川も来ない。
食べ物ある?
電波届く?
……酸素ある?
このくらいの標高の人(特性の強い人)は、誰が見ても発達障害と診断される。
明らかに困るし大変だ。
支援が必要だろう。
これは異論ない。
でも、こんな人は多くはなくて。
外来に来る子たち。
大部分は、そこそこ、中途半端な高さの人だ。
「気になる子」とか「グレー」とか、「なんか生きにくい人」とかね。
人数的にはコッチが多数派。
日本の国土の標高は、その平均が382メートルだ。
ドヤ顔で言い切ったが、こんな知識、もちろん僕が知っているハズもなく。
今調べたのだが。
382メートル。
これが日本の土地の、平均の高さ。
長野県の平均標高は、1132メートルらしい。
高いな。
じゃあもう、長野全域、すべてが山なのか。
って話になる。
https://cyberjapandata.gsi.go.jp/3d/average/average.html
発達障害は、どこで線を引くか、どの程度困るか
どこで線を引くかだ。
発達障害(疾患)が「ある」か「ない」かの二者択一ではない。
発達障害はその診断において、どの程度困るかを重視する。
この時、その困り感が特性の強さに比例しているとは限らない。
標高が高いと、イコール困るってわけでもないのだ。
もちろん標高が高い方が困りやすい傾向はある。
でも、標高が高い、すなわち困るわけでもない。
同様に、標高低めだから大丈夫っしょって話でもないのだ。
日本の都道府県で一番標高が低いのは、千葉県らしい。
千葉県の最高峰は、愛宕山という。
標高は408メートルだ。
もちろん今ググった。
一方、長野県の平均標高は1132メートル。
愛宕山は408メートル。
長野から愛宕山を見ると、もうさ、山っていうか穴だ。
穴……。
山なのに穴とは、これいかに。
標高イコール困り感、ではない。
↓千葉県愛宕山(標高408メートル)
↓長野県松本市(標高592メートル)
どちらが生活に不便か、一目瞭然だろう。
発達特性はこれに似ている。
特性があっても(座標が高くても)、環境や場所によってはさほど困らない。
つまり、自分の特性をうまく活かせる場所を選択するって、かなり重要で。
許容される場所、というか。
特性があっても、問題にならない(なりづらい)場所ってあるのだ。
標高が高い(特性が強い)人が困りやすい傾向にはある。
でも、それが全てではない。
明らかに物資の運搬に不便で、周囲に人がいなくて、災害にも弱く、なんなら酸素まで薄いのが、『困っちゃう』場所だ。
標高と困り度は、イコールではない。
標高が高くても、困らない場所もある。
周りに人がたくさんいて道路もあって物流も確立し、困らない場所。
山の中腹ではあるけど、結構開けた場所で、生活には不便ないって所もある。
一方、標高自体はさほど高くなくても、周囲と比較すると相対的に高地で、物資が届きにくい場所もある。
地形的に困りやすい場所だってある。
他はいいけどとにかくクマが出るとか。
単純な標高の数字で、困り度を比較することはできないのだ。
発達特性に対して、客観的な強弱や種類を追求する意味って、きっとあまりなくて。
診断レベルですか?
よく聞かれるけどさ。
もっとざっくりで良い。
見境なく診断をつけて回る意味はないだろう。
特性はある。
その上で、どう生きるか。
って話に尽きる。
標高何メートルか(特性の種類や強さ)
と
住むのに大変な場所か
とは分けて考える必要がある。
あなたはこの特性があるので、発達障害です。
(標高◯メートルなので、山です。)
といった類の問題ではないように思われる。
おまけ
そもそも論。
土地って繋がっている。
発達特性にもグラデーションがある。
どこからが山か、山じゃないか、分ける意味なんてないのではなかろうか。
富士山の山体の大きさ、裾野の広さはどのくらいでしょう。そもそもどこからどこまでが富士山なのか、明確にすることはできませんが……(以下略)
↑天下の国土交通省もこう言っている。
発達特性の強さって、所詮標高で。
イコール山(不便度)ってわけじゃない。
外来を見ていると、
大体みんなそこそこの高さで、そこそこ不便
って感じだ。
これを客観的に切り分ける方法はないし、切り分ける意味もないのだと思う。
特性はある。
その上で、どう生きるか。
↑これに尽きる。
ってことで。
あなた(およびお子さん)の標高は、どんなもんでしょうか。
結構高い?
そこそこ高い?
比較的高い?
まあまあこんなもん?
オッケー、その高さは生涯変わらないとして。
じゃあ、どう生きていくのが良いでしょうか。
その高さは生涯変わらないとして
どう生きていくか
とことん迂回して、なるべく平坦な道を歩んでいくか
ちょっと挑戦して、体を慣らしていくか
高校って、目指しているものが全く違って。
将来まだ決めてないけど、どの標高でも抵抗無くチャレンジできる、という子は全日制普通科。
うちは「今のままで大丈夫なところ」を娘は希望しているけれど、高卒認定を取るためだけのフリースクールのような通信制サポート校。
親としては、丁寧に寄り添ってくれて、HPを少しずつ上げていく学校の方が、卒業後に目の前の壁を迂回、迂回という道より歩みやすいと考えています。
過去の記事の松竹梅を参考に、「こういうメリットデメリットがあるよ、イメージした上で、決めるのはあなただよ」と竹を選ぶよう、視覚的に理解しやすいよう説明するつもりです。
今回は特性のお話ですが、不登校の進路先、その先の生き方に置き換えて気付きを頂きました。
特性はある。
その上で、どう生きるか。
↑これに、尽きる。
いや、本当に…そう思います。思わずリピートしてしまいました。
特性というと、娘のことばかり注目してきましたが、よくよく考えてみると私自身もあったりして…。
物事を理解するのに、すごく時間がかかってしまうタイプで、なかなか周りと同ようにできなくて凹むことも。
色々偏りがあるのかもしれないですけど、でもそれ嘆いていても仕方ないんですよね。
どうなりたいかを考えて、今できることをやっていく。
山と発達障害のお話から、そんなことを考えました。
P先生の「そもそも論」好きです!
夏休み中は元気な我が子。
このまま右肩上がりで回復するかも!という淡い期待を抱く夏から、やはり時期尚早であることを思い知らされる秋。
P先生のブログを読んでいると
「まぁ、そう、きばるな」
という声が聞こえてきます(ブラックペアン渡海先生風のP先生の声)
そもそも、不登校は親が回復のレールを敷かないことが大切なのかも、、、
P先生の「そもそも論」を道標に行きつ戻りつしていれば、いつか自分の「そもそも論」を手に入れることが出来るかもしれない。
物想う秋。
去りゆく渡海先生の後ろ姿をP先生の後ろ姿に重ねて見る。
妄想が激しくてゴメンナサイ!
4日後に、中2の娘に3歳から付いた診断名を告知する予定です。
11才の時に、特性の話しはしたのですが発達障害の診断名までは伝えていませんでした。
このタイミングまで伝えてる事がなかった事、
タイミングが今な事はさておき、
標高のイメージも合わせて伝えようと思いました。
みんな多少の特性はあって、
あなたは多分標高がこれくらいで、ちょっと生活しにくかったから受診し、診断を受けた…と。
どこからが山か、ふもとか…
どう伝わるか、伝えたあとどうなるか…
不安しかないのですが…
本当にその通りですね。
先日ネット記事で小学生の10%は発達障害と書いた記事がありました。それはどこの標高の人たちを発達障害と捉えて数値化しているの?と思いました。
でも数字化されると、世の中人は、標高の高さも知らず、そうなんだと思ってしまう。もっと本質を調べきなんだろう。
にしても、どう生きていくのが良いか、親と子供の価値観も違う。分かってあげたい。でも頭で分かっているつもりでもなかなか難しい…。
書籍化希望!!
P先生のおっしゃる通りだわぁと、納得しながら読みました。
問題は、「自分の特性をうまく活かせる場所」「特性があっても問題にならない場所」をどうやって見つけるか?という点ですよね。
発達凸凹ちゃん本人は認知が歪みがちなので、「努力で自分の苦手を克服しなければ!」と、やめときゃ良いのに自分の苦手な方向に進もうとしがち。
幼少時から人に怒られがちで自己肯定感が低いせいか、自分軸より他人軸で生きようとして失敗しがち。
コミュニケーションに苦手意識があるので、人を頼るのも苦手‥一人で自爆しがち。
本人をなんとか支えて導こうとする親も、遺伝的に発達凸凹があるせいか、間違った方向に導きがち‥
P先生のような専門家に早い段階で出逢い、助言や支援を受けることが必要なのでしょうね。
千葉県で生まれ育った自分が仕事で長野県に赴任して、なーんか違和感あって心身のバランス崩したのは、標高差が関係してたのかも!と納得しちゃいました。
長野は長野の良さがあったけど、標高差が高すぎた…自分には標高の低い千葉の環境があってたようで。今は元気です。
人それぞれ合う環境ってあると思います。標高差のある息子も、自分の生きやすいところを見つけて生きてほしいなと思います。
> オッケー、その高さは生涯変わらないとして。
最後のここ、好きです。
落胆もしないし、認めない!とかでもなく、これから頑張っていこう!でもなく「はーい、わかりましたーじゃあどう生きていこうかな〜」って感じで良いです。
育った環境の影響は大きいのかなーと、性格にもやりますが。
肯定されるか否定されるかでその後の困り感はかなり違うのかなと感じています。
仙台には国土地理院認定の「日和山(標高3m)」があり、毎年山開きが行われます。
遭難に備えた準備をして登頂する方もいれば(もちろんユーモア)、軽装のまま数歩で踏破する猛者(至極当然)がいます。
たとえば3mの「ASD」という山があったとして、
山は山なんだから万全の体制を整えたい!懸念は取り除く!という親御さんと、
3mだし、認定されないだけでそのへんにもよくある高さだし、そこそこうまく対応していこうという親御さんがいるのでは…。
P先生のアプローチとはちょっと違うけど、そんなことを考えました。