先日の質問企画。
思いの外、大ボリュームとなった。
いやね、シンプルに、質問の数が想定より多かったのよ。
それで量が増えた。
何人かに、「更新の時間が取れないから質問を募集したのに、更新が増えているってコレいかに⁉︎」と言われた。
ごもっとも。
ただぶっちゃけ、質問に答える方式は楽だった。
普通に1記事書くより、質問お答え8記事の方が楽だ。
1日でバーっと書いて、あとは連日アップしただけ。
他の日は、遊んでただけ。
ここから考えるに、僕の文章作成は、構成にエネルギーを要するのだろう。
流れとか、起承転結とか。
起承転結?
いや、別に意識してないや。
どこでボケるか、どうボケるか、だな。
書くことが決まればあとはスムーズ。
何をどう切り取り、どう表現するか考えるのに時間がかかるのだ。
自分のことがまた一つわかった。
これは、みんながみんなそうではなくて、僕の場合であり、僕個人の特性だろう。
自分を外にぶつけると、跳ね返って自分がよく見える。
試してみるものだな。
診断とは
閑話休題。
質問でも多数いただいたのだが、発達障害の診断の話だ。
- 診断とはなにか。
- どうなったら診断か。
- 診断は変わったり外れたりするのか。
表現は色々だが、みなさん診断について興味があるようだ。
診断はぶっちゃけ、「割と主観」だ。
※ASDとADHDの話です。その他の精神疾患や身体疾患はその限りではありません。
- その疾患の特性があり、
- 明らかに困っている。
↑すごく平たく言うと、上記2点で診断される。
で、①の「特性がある」って、どの程度で「ある」とするのか、グレーはどうか、特性Aはあるけど特性Bはないとか、時と場合によって出方が変わるとか、そういった諸々がざっくり『主観』でまとめられる。
主観なのよ。
そして②の「明らかに困る」も、どの程度でそう表現するか、まぁ『主観』だ。
Aさんは困ってBさんは困らず、Cさんは許容範囲の困り感、なんてことは全然起こり得る。
誰が評価するか。
どんな基準で評価するか。
『主観』だ。
結局、人が人を評価するなんて、『主観』でしかないのだ。
企業の採用面接なんかでも同じでしょ?(偏見かもしれません)
ASDやADHDは客観的な検査基準(血液検査で数字がいくつとか)がないので、そりゃもう『主観』だ。
各種評価スケールがあるじゃないかと思われる方もいるだろうが、あれだって結局『主観』だ。
(本人や保護者からの)聞き取りしかり、行動観察しかり。
どんな行動特徴をどう評価するかは、きっちり『主観』が入ってくる。
だもんで、あまり厳密に考えず。
僕はよく、
診断より『玉』を見て
って言うけれど。
そういうことだ。
こんな子がいました。
分かりやすい例を示す。
幼児期から通院している子。
園でも困り、家でも困り、療育に通っているのだがそこでも困り。
すでに加配やSSTなどできることはやっており、診断のメリットもないため(デメリットも別にないけど)、親御さんの意向ではっきりとした診断はつけずにいた。
この子がこの春、通院を卒業した。
小学校入学後、数年様子を見た。
すると、どうやら困っていない。
小学校生活も半分を終えたところだが。
- 友達は、たくさんいる。
- 勉強も、好きではないが頑張っている。
- 苦手なイベントはありつつ、全体的には楽しく通学している。
- 家でもイライラやかんしゃくを起こす様子はない。
- 兄弟喧嘩は、まぁ、常識的な範囲内。
特別な支援や調整を必要とせず、もちろん投薬も行っていない。
通院間隔もかなり開いてきた。
もう、学校を早退して通院するより、授業への出席を優先した方がよさそうだ。
親御さんも大丈夫そうとのことで、晴れて卒業となったわけだ。
最後に、親御さんが聞いた。
僕はこう答えた。
- 幼児期はASD特性が目立った。
- 就学以降はASD特性は目立たない。むしろ今の困りごとはADHD特性。 (不注意が結構ある)
- ただ、それも診断レベルではない。
すると親御さん。
そう。
結構困ったのだ。
病院でも療育でも、ASD特性がはっきり見て取れる程度には特性が強かった。
家でも困ってたし。
この時点で診断をつけるならASD。
でも、今は困らない。
特性はゼロにはならないが、困らない程度。
多少のこだわりや空気の読めなさくらい、小学生には誰だってあるでしょ?
実際クラスで浮く様子もなく。
じゃあ「困らない」。
ADHD特性についても、授業中に多少ぼんやりしたり、鉛筆を無くしたり、まぁ小学生ってこんなもんでしょ。
忘れっぽさを自覚し、毎朝自分でチェックしてるんだって。
クラスでも、別に「忘れ物キング」ではない。
それなら別に良い。
この辺の話を総合すると、「ADHD特性はあるが、診断基準を満たさない」となる。
「困ってない」から。
もちろん上記は親御さんから聞いた話で、学校の先生からは全然異なる評価が返ってくる可能性もあるが。
でも、親御さんの『主観』の範囲で聞き取りを行い、僕の『主観』で診断をつけるなら、「診断基準を満たさない」となる。
よって、
- 幼児期はASD
- 学童期はADHD特性はあるが診断閾値未満
というのが、この子のまとめだ。
患者さん主体で
実際、診断ってこんな感じ。
流動的なのだ。
診断があるか、ないか
障害か定型発達か
と、二者択一で考えると苦しくなる。
- この子は診断されたの? されてないの?
- されてないんだったら、「発達障害ではない」つまり「定型発達」ってこと?
- ADHDって言われたけど、ASDの方が強い気がするけど……?
- あっちではこう言われ、こっちではこうで、誤診?
- 診断が変わった? 消えた???
とか考え出すと、ドツボにハマる。
それより、しっかり『玉』を見て。
患者さん主導で、診断をどうするかを考えていただけると良いように思う。
診断って、所詮『主観』で。
診察室で会うだけの医者には、その子にピッタリの助言は困難だ。
診断がつくほど困っているのか、そうでもないのか。
診断をつけた方がお得(使える制度が増えるなど)か、そうでもないか。
診断をつけて(もしくはつけずにおいて)、その後どうするか。
その子とずっと生きていくのは、その子本人で、次に親御さんだ。
当事者が戦略を練るのが良いと、僕は思う。
不登校の中2息子が、先日初めて診断名(自閉症スペクトラム)を言われました。
神経質なところや不安が強いところがあり困っていますとは伝えていましたが、それ以外の特性(手順へのこだわり、興味の限定、人間関係など)には当てはまらず、むしろ真逆と思っていたので驚いてしまいました。
先生によると「いろいろなパターンがある。こだわりの強さ、初対面の友だちへの緊張があり、困り感もあるのでそう思います」とのこと。
どうしても納得できずモヤモヤモヤモヤしているのですが、それは先生の主観なので、息子自身をしっかり見るようにします。P先生ありがとうございます。
いつもありがとうございます!
質問も全部お答えくださって・・・!!
私は息子が診断された時(もはや15年ちかく前)にすごくホッとしました。自分の接し方のせいではないと分かったのとやるべきことが少し分かったので。
診断名があると学校や歯医者さんなどで理解を求めるのにやりやすいということもありました。
我が家にとってはメリットの方が大きかったなと感じている所です。でも服薬をずっとしているので、診断名は必須なのかもしれないですが。
本人へのカミングアウトもある程度の年齢には自分は周りと何かが違うと自分で分かって理解していたので、伝えるまでもなかった感じだったなと思い出します。
いつもわかりやすく勉強になる記事をありがとうございます。
私は最初に出会った専門家の方に言われ、診断にとらわれずに、「その子」個人を見て育てて来ました。
なので私にとっての診断は、投薬が必要になった時など、便宜的に使うマーカーみたいなものという認識です。
流動的に変わるとありますが、私はそれを成長と思っています。
どんな子でも適切に関わることで成長して、自らの苦手に対策をたてて、クリアしていくようになる。それは定型と言われているお子さんも同じこと。
違いは、非定型児は学校などの社会で潰されるリスクが高いことなのかなと。
特に診断閾値未満のお子さんが潰されやすく、メンタルがやられやすい気がしています。
診断名と聞いていつも思うことなのですが、
本人へのカミングアウトなどで診断名を使ってしまうと、診断名が先走りし、ネットなどで調べた子どもが自分をその典型的なタイプに当てはめすぎてしまうようなことはないのでしょうか?
たとえそうでも、あまり気にすることではないのでしょうか?