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評価って、能力だけで決まらない

少し前に、東大で人を刺しちゃった事件があったじゃないですか。

ニュースを見て僕が思ったことを書かせてください。

 

まずはっきり言ってくけど、僕はその刺しちゃった高校生を全然知らない。

ニュースで聞きかじっただけ。

彼の中でどんな葛藤があり、そもそもどんな環境で育ち今どんな環境に身を置いているのか、全く知らない。

つまり、なぜ事件が起きたのか、全く分からない。

 

憶測で物を言うのは超絶失礼って自覚してるし、ここから先は彼に対しての話じゃない。

あくまで「ニュースを聞いて僕が思ったこと」です。

 

能力の差

何度か書いてるけど、僕は割と知能検査(WISC)が好きで。

困り感の原因を探るため、検査を勧めることがよくある。

 

結果を見て思うこと。

 

能力だけでは決まらない

 

これな。

能力が高いからって成功するわけじゃないし、低いとうまくいかないわけでもない

 

 

IQってその人の持つカードだ。

能力の高い低いって、残酷だけど存在する。

そりゃもう、残酷なくらい差があると思うのよ。

 

でも、能力だけじゃ決まらない。

能力の順に成功するわけじゃない。

良くも悪くも、だ。

 

良い面と悪い面

現実社会で受ける評価って、能力順とは全然限らない。

環境とかタイミングとか見せ方とかで、簡単にひっくり返せる。

現実ってそんなもので、ここは同意いただけると思う。

 

僕は、昔はこれってチャンスだと思っていた。

自分みたいに能力のない人間でも、工夫すれば評価され得る。

やり方や努力(努力大嫌いだけど)で、いくらでもひっくり返せると思っていた。

※余談だけど、この思考が「できない人は自己責任」という傲慢な考えにつながっていたように思う。なんてクソな考え方。

 

 

良い面を見ればその通りな部分はあって。

やり方次第で能力差をひっくり返すことは可能。

先日書いた受験テクニックがよい例だ。

 

ズバ抜けた能力のない人間が、いかに合格圏に食い込むか。

できる問題をミスなく得点すれば結構な上位にいける』。

これは真実だと思う。

受験生へ 〜自分を信じるな。そして自分を信じろ。〜試験直前の受験生に捧ぐ。 デコボコのある受験生。 これを読んでいるということは、発達に特性があったり、能力がデコボコ...

 

 

でもたくさんの患者さんを見て、悪い面も見えるようになった。

つまりこうだ。

 

能力がなくても上位に行くことは可能

 

これ、悪いこと?

一見良いことだ。

が。

 

能力的には高くないのに、上位に行く子がいる。

具体的にはIQ平均(100前後)の、不安が強い、つまり真面目な子に多いだろうか。

 

小学校くらいだと、真面目にコツコツ積み重ねれば、上位にいける。

いわゆる優等生だ。

勉強がよくできて、正義感と責任感が強く。

先生受けもよい。

評価されやすいタイプの子。

 

この子が、「自分はデキる」というのがアイデンティティーになっちゃうケースがある。

なんでもちゃんとできる「いい子」。

そうやって評価されてきたし、逆に言うとそうじゃなければ自分の存在価値はない。

そんな風に思っちゃう子がいる。

思っちゃうというか、信じ込んじゃう、思い詰めちゃう子がいる。

 

 

この子がですよ。

中学生になると、勉強が難しくなる。

『真面目』一辺倒ではトップを走り続けることは困難で。

どーしても出てくるのよ、能力の差が。

 

1を聞いて10を知るような、とんでもない高知能の子がいる。

アタマの作りが違うと思い知らされるような天才って存在していて。

 

僕の周りにもたくさんいる。

学生時代も、今の職場でも、とんでもない天才っているのよね。

苦労せずなんでも出来ちゃう。

逆立ちしても絶対に勝てないと思い知らされる人がいる。

そんな人が、ゴロゴロいる。

 

 

でね。

中学生くらいになると、真面目な秀才は、こんな天才たちには敵わなくなってくる。

もちろん真面目な秀才は真面目な秀才だもんで、かなりの好成績を修めるよ?

だけど、トップは取れない。

トップはずば抜けた知能を持つ、いわゆる「天才」が持っていく。

 

真面目な秀才は、努力を積み重ねる。

今までもそうやって評価されてきたし、それ以外のやり方を知らないし。

 

優等生じゃない自分に価値はない」と思っているわけで、必死になって努力する。

一番じゃないと意味がない。

そうじゃないと過去の自分の努力と、ともすると自分の存在価値すら否定することになっちゃうから。

 

そりゃもう、必死に頑張る。

それでなんとかなる場面もあるけど、だんだんと、時間の経過と共に能力差が浮き彫りになる。

 

ここで、真面目な秀才は心が折れる。

いくら努力しても、トップにはなれない。

「優等生」のアイデンティティーが維持できなくなる。

心のよりどころがなくなってしまう。

ここで不登校だのODだのうつだのリスカだの不眠だの拒食だの起こして、病院の門を叩く子がいる。

 

 

僕は思うんだ。

この子の能力は「平均」だ。

でも「上位」の評価を受けてしまったばかりに、実力差とのギャップに苦しむことになった。

 

確かに、平均的な能力で上位の成績を修めたことは素晴らしい。

称賛に値することは疑いようがない。

 

でも、そのために自分の能力を過大評価し、苦しむ結果となった。

これ、能力と評価が必ずしも一致しないことによるマイナス面だよなーと。

 

結果じゃなくて過程を評価する

繰り返しになるが、僕は事件を起こした彼のことは全く知らない。

彼がエリート学生であることをアイデンティティと思っていたのか否か、知る由もない。

ただ事件を聞いて、このような背景が思い浮かんだだけだ。

想像でしかない。

 

 

外来に来る、心が折れた真面目な優等生たち。

この子たちが、どうしたらこうならなかったか考えるんだ。

 

やっぱり、評価ばかりを見ちゃダメだと思うんよ。

評価じゃなく、その子のやったこと(過程)に注目できたら、違った結果になったんじゃないかと。

 

大人にできるのって、

結果じゃなくて過程を評価する

ことだと思うんよ。

 

成績優秀という「評価」がアイデンティティーになっていたから、成績の奮わない自分が受け入れられなかったわけだ。

「勉強のできる自分」を拠り所にするのは、非常にリスクが大きい。

上には上がいるからね。

天才っているから。

 

そうじゃなくて、「真面目にコツコツ努力できる自分」をアイデンティティーにすればよかった。

そしたら、ここまで心にダメージを受けなかっただろうにと思う。

 

事実、努力を積み重ねた結果の好成績だったわけで。

そこを自分で評価できると良かった。

実際、努力の継続って誰にでもできることじゃないし、マジで素晴らしいし。(僕にはとてもできない)

明らかにその子の強みだ。

 

 

我々大人にしてあげられるのは、

結果じゃなくて過程を評価する

ここだと思う。

 

良い成績を褒めるんじゃなくて、

「頑張って勉強していたね」

と、やったことを褒める。

 

本人は結果にこだわるかもだけど、「結果じゃなくて、頑張った過程を見ているよ」というメッセージを送り続ける。

大人にできるのって、ここだと思う。

 

だって、今回の結果が必ずしも能力を保証しないから。

上には上がいるから。

能力差はだんだん顕著になって、その子を苦しめる可能性があるから。

 

自分を知る

何度も書いているけど、自分を精度高く認識するって非常に大事だと思う。

自分の能力や特性を、ちゃんと理解する。

難しいけどね。

ズレが大きいと、人生でトラブルが起こりやすい。

 

今回書いたような、

能力と評価が必ずしも一致しない

って、結構落とし穴だと思う。

 

どうしても、評価イコール自分の能力と思いがち。

良くも悪くも。

 

 

評価と能力は一致しない。

自分の能力をきちんと把握した上で、作戦を立てたい。

 

能力は劣っても、作戦次第で能力以上に評価されることは十分可能だし。

能力を過信して大きな挫折をすることも、自分をよく知れば避けられる。

 

 

能力と評価は一致しない。

良くも悪くも。

 

上には上がいる。

世界には、とんでもない天才がいる。

「デキる自分」がアイデンティティーになっちゃうと、危ういなーと僕は思う。

POSTED COMMENT

  1. 匿名希望 より:

     努力ができるって、日本社会を平穏無事に生きるための、最も強力な能力だと思ってたんですが、それが評価されない世界線が存在するんですね。

     個人的には、努力=相手の言われた通りにしようとできる従順性(自分の好きなことは努力じゃなくて熱中って言いますよね)+作業あたりの効率が悪くても腐らずに継続できる気力+継続的な作業能力+諸々だと思ってて、もしうちの子達にそんな事ができるなら、もちろん手放しで褒めたかったのですが、いやもう全然。私にも夫にもそんなものはないので、初めから多くは期待してませんでしたが。自分の興味関心に関わらず、言われた事に真面目に継続的に取り組めるって素晴らしいですよね。

     これも個人的な意見ですが、テストで計れる能力って、想定外の事とか、だれも決まった正解を出せない時に役に立つ応用力を測っている気がします。でも、それが必要な職種ってそんなに多くない。多くの職種では、降りかかるアクシデントも必要な知識もそれなりに幅の決まったもので、対応が事前に思い付かず一回失敗しても、それを学習して努力を重ねれば、なんとかなる仕事も多い。私が世の中の仕事をどれだけ知っているかと言われると….ですが、世間でベテランが幅をきかすには、それなりの理由があると思います。
     
     仕事の前、学校の段階でも、言われた事に沿って努力できないと、運が悪いと「ボクノ リソウノセカイノチツジョヲ オオキク ミダスモノ」という相手に遭遇しかねない。そこまでではなくても「ここに来るって事はそれなりに努力してたよね。これからも出来るよね」みたいなのにあっても「無理です。確かにテストの時、ある程度書けましたけど、真面目に学校の授業で習得したわけじゃなくて、たまたま興味のおもむくままに読んだ本に書いてあったり、面白い授業をしてくれる塾の先生の授業を聞いて知ってただけです」という事になっちゃう(もし高知能なら、知らなくても応用力で何とかするんでしょうが。そして、他の色々な能力が低くても、高校までの学校生活の中ではそれなりに教師に許される事が多いのに、努力できないのだけが許されないのって、多分、自分の指導が魅力的でないって指摘されてる様なものだから。だからこそ、P先生が前に書かれた「お作法」という言葉には、納得しました)。

     努力できるって、本当に素晴らしい能力ですよね。

     そして、私はそんなに努力できる子を近くです見た事がない。類は友を呼ぶで、私の周りが努力の苦手な、それぞれが好きな本の虫だっただけで、努力する子と打ち解けた話をする機会がなかっただけなのかもしれませんが。大学も、高望みしない子達が行くところだったし。いる所にはいるのかもしれませんが、ツチノコレベルに希少な存在に見えます。努力できるって本当に希少な才能で、そんなお子さんは存分に胸を張ればいい(そしてあなたがもし将来教師になったとしても「努力しない」子を責めるのはやめてほしい)、と思います。

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