心理学

『連帯責任』に思うこと

母
子どもの〇〇は親の責任だって言われるんです。

 

男の子
男の子
クラス全員が〇〇できないと、お楽しみ会ナシって先生が。

 

〇〇のところは、テストとか宿題とか不登校とか課題提出とか生活態度とか、そんな内容ね。

一人〇〇ができない人がいたら、他の人にも迷惑が及ぶ。

いわゆる、『連帯責任』ってやつ。

 

僕は、この言葉が2番目に嫌いで。

なぜ嫌いなのか説明する。

 

 

1番?

『合併号』に決まってるよ!!!

今週合併号なんだよ。ジャンプ不足が著しいよ。

 

『連帯責任』ってさ

僕は基本的に連帯責任制度には反対で。

※基本的にね。絶対ダメとは言ってない。

 

ある人が物事(宿題とか生活態度とか)を実行するかしないか。

それはその人の責任であり、その人の問題だと思っている。

基本的に他の人は関係ない。

 

誰の課題か」って、常に考える必要があると思っていて。

 

宿題やテストは、明らかに本人の課題だ。

不登校や非行なんかも、本質的には本人の課題。

(この辺は周囲の影響があるし手助けも必要だけど、最終責任者は本人だ。本人の人生であり、本人に選択権がある。同時に、どんな結果でも本人が引き受けなければならない。)

 

親の不安と子の不安を分けて考えて」って、いつも言っている。

その人の人生の課題は、その人の人生の課題だ。

 

 

でね。

ここに『連帯責任』の概念を持ってきちゃうと、責任の所在が分からなくなると思うのよ。

 

母
親の責任なんだから、私が〇〇させなきゃいけない。

 

でも実際に行動するのはお子さんなので、いくら言ってもやらないかもしれない。

もしくは周囲に働きかけても、環境は思った通りには動かなかったり。

自分以外の人の行動を変えるって、すごく難しいからね。

 

なのに責任は親御さん。

意味わかんない。

 

親御さんにはどうしようもないのに。

責任は、親御さんには背負えないと思うんだ。

同時に、良い結果も悪い結果も親御さんには引き受けられない。

 

 

そして本人。

渋々行動したとしても、

 

男の子
男の子
お母さんがやれって言ったからやったんだ。

オレはやりたくないのに!

 

ってなると思う。

 

この状態で成功したところで、

「成功の秘訣は?」

「お母さんがやれっていったからやっただけで、別に」

だ。

学びにつながらない。

 

失敗しようものなら、

「だからイヤだって言ったんだ!

全部お母さんのせいだ!」

だろう。

キング・オブ・こじれ家庭だ。

 

 

これさ。

誰得?

行動の責任者は誰?

 

ちゃんと責任を取らせてあげてほしいんだ。

 

 

全員が合格するまでみんな居残り」とか、マジ卍だ。

 

その子は、その子の責任しか取れない。

他の子が遊べないのは、その子の課題が終わらないこととは関係がない。

己の課題(やるか放棄するかも含めて)と向き合えばいいのであって。

 

他の子も、責任が取れるのは自分の行動だけ。

その子の課題が終わらないのは、他の子の責任ではない。

自分の課題が終わったのなら、遊ぶ権利があって然るべきだ。

 

ここで、

 

「センセー、たかしくんが終わってません」

 

「早くしろよ、お前のせいでみんな遊べないんだぞ」

 

「たかしくん、みんなあなたのことを待ってるのよ」

 

とかなってくると、もうわけ分からん。

いじめにもつながりそうだし。

 

その人の課題は、その人の課題。

その人の人生は、その人の人生。

 

これが大原則だと思うのだ。

たかしくんの課題は、あくまでたかしくんの課題だ。

 

連帯責任にすると目的が変わる

『連帯責任』の制度で、得するのは誰かと考えると。

お上だ。

江戸時代は、連帯責任の制度を敷くことで年貢確保の確実性を上げた。

農民は、サボると村八分になっちゃうもんで一生懸命作業しただろう。

 

学校で考えると、大人だ。

子どもに課題等やらせる際に、連帯責任にすればかなり強力な強制力となる。

たかしくんだって泣きながら課題するだろう。

管理はしやすい。

 

でもさ。

これ、たかしくんの学びにつながりますか?

「みんなのために頑張った、協調性を学んだ」って、なる?

 

「みんなのために」

「心を一つに」

「one for all」

 

耳障りはいいけど、これってたかしくんが理解・納得して自発的に行動した場合に限ると思うんだ。

先生から強制されていたら、「みんなのために」じゃなくて、「自分が村八分に合わないために」だ。

目的が変わっちゃう。

たかしくんの協調性の獲得にはつながらないと思うんだけど。

 

 

成績不振は親の責任だ! とかもそう。

親御さんは、自分の責任として頑張らせるだろう。

でもたかしくんにとっては、勉強するのは「親からの愛情を失わないため」だ。

目的が変わる。

 

当初の目的は「学力を上げ、豊かな人生につなげること」だったんじゃないの?

条件付きの愛情(勉強しないと愛してもらえない)って、豊かな人生と真逆じゃん。

 

協調性の学び方

『連帯責任』を効果的に活用できる場面って、すごく限られると思う。

かなり状況を選ぶ。

 

「修学旅行の事前学習とルート決め、たかしくんも積極的に参加して、みんなで楽しい旅行にしようよ」

とか。

「たかしくんが来てくれないと班のみんな寂しいよ、たかしくんも大事な班員だよ!」

的な。

 

たかし
たかし
そう言ってくれると嬉しい。

僕も頑張ろう!

 

こうなれば大きな学びにつながると思う。

 

 

「全員終わるまでみんな居残り案件」も、

 

たかし
たかし
あとちょっと、頑張って終わらせて、僕もみんなと一緒に遊びたい!

 

と本人が思うなら良いと思う。

 

つまり、本人の理解・納得があることが大前提だ。

 

 

たかし
たかし
オレが宿題やってないことが、他の人たちになんの関係があるんだよクソが。

 

とか、

 

たかし
たかし
なんで親に言うんだよ、俺の問題だろクソが。

 

とか思ってたら、マジで意味ないと思うんだ。

人生全般において、「クソが」と思いながら行動してもロクなことがないというのは世の中の定理。

 

「押し付けられた協調性」は、今後生きてくる「真の協調性」とは異なる性質のものだと思う。

「押し付けられた協調性」ってむしろ反発、反抗、不服従とか育てそう。

自己肯定感もへし折りそうだ。

 

 

人間社会ではどうしたってある程度の協調性が必要。

これって自分で理解・納得しないと身につかないと思う。

 

協調性の欠如著しい僕が言うんだから、説得力あるでしょ?

理解してないと応用が効かないのよ。

 

やらかすよー。

全然やらかす。

 

まとめ

その人の課題は、その人の課題。

その人の人生は、その人の人生。

 

基本的には分けて考える。

他の人には背負えないし、背負わなくていい。

 

連帯責任を使うなら、シチュエーションを慎重に吟味してから。

 

 

ってことで、ジャンプ36・37合併号は、つまり

「36号は普通に出ます、37号は休刊です」

って意味だと思うんだけど、どうでしょうか。

POSTED COMMENT

  1. たぬ より:

    先生

  2. にったん より:

    こんにちは!

    うちのASD気味でHSCな小2の息子は、連帯責任が適応されそうな場面において、むしろ逆に失敗した人を酷く責め立てる傾向があります。

    例えば、家族の失敗で出掛ける時間が少し遅くなったとか、最後に使った妹がタブレットの充電をしないで寝たとか、些細な事で長男は「こんな事もできないってクズか!?こんなクズは消えた方がマシだろ!」というような感じです。
    学校ではそんな事なく、むしろ失敗した子をフォローする優等生寄りらしいのですが…

    あなたはそう思うのね案件ではないし、失敗はみんなするし、あなたもする可能性があるから厳しく責めないで、と言っても「自分は失敗したら消えるからいい。」とか言うし、幼稚園児の下の子は、何か失敗すると兄からクズと言われてしまい、号泣する日が続いています。

    きっともう少し長男が、自分と他人の課題を分けて、他人の課題がどうなっても気にならないようになれるといいんですよね。
    私も小さい子供達がいて、滞りなく日々を済ませるために、同調圧力を出し過ぎているのかもしれないなと思ったので気をつけたいと思います。

  3. 匿名 より:

    本当に先生は連帯責任を使って自分の仕事一気に終わらせようとしていると感じています。
    宿題忘れゼロの日にしてなかった子が泣き出したそうです。担任は、泣き出した子に
    「あやまって!!」と言ったそうです。何年も前の話をうちの子はおぼえています。
    うちのクラスはゼロでした♪と言えない担任にあやまって!!なんだなと思いました。
    修学旅行のくだりですが、あれもうちの不登校の子どもはクラスメイトのために自分の気持ちと闘わされていてみていてしのびないです。みんなのために頑張りなさい。になって良かれと先生が口にする言葉に苦しめられる。最近、わたしは学校から離れる気持ちが固まりました。やってられない。
    グチです。

  4. ワンピース より:

    こんにちは
    P先生、いつもありがとうございます。
    ストーカーのように、毎日覗きにこさせていただいております。

    最近、親の課題と子どもの課題は別ということが、頭での理解でなく、腑に落ちました。

    今は、本当に子どもを心配せずに、信頼しています。

    親が心配していると、子どもは心配されるような子どもに
    なってしまうそうです。スピリチュアル系ではなく、やはり
    現実は想像したことがそのとおりになっていく、ということのようです。

    そして、子どもの不登校って、別に問題行動でないと文科省も言ってますし、メインテーマは、「子どもが身をけずって、親の生き方が苦しそうだから、しあわせになって」と
    教えてくれているということなんだということも、腑に落ちたんです。子どもに私の過干渉や過指示や先回りが!とか思って罪悪感ばかりでしたが、感謝できるようになりました。

    「~すべき」、「~べき」のジジババ世代の戦争後遺症で子育てをしてきた世代が「毒親」と呼ばれ、私の親も毒親だったということがわかり、私や子どももコントロールをされてきて、苦しかったんだな、と実感しています。

    P先生がご指摘されている、管理しやすいお上が得する思考と全く同じで、親もわかりやすい成果だったり、大人が扱いやすい「良い子」だと管理しやすいし、親の手柄に思ってしまうのかな、と。

    子どもは親の自尊心を満足させるための「良い子ロボット」ではなく、自分の人生を生きなければならないのに、親の私が子どもに甘えて子供の背中に乗っかってきてしまったことで動けなくなってしまったんだということも腑に落ちました。

    だから、親である私は、子どもに依存せず私の人生を生き、子どもは子どもの人生を生きることが大切なんだ!と当たり前のことがわかりました。

    そして子どもがこれから他人と比べずに、自分を肯定できて
    自分を好きでいられる、大変な時には「助けて」と言える大人が本当の「自立」と何かで読みましたが、そんな大人になってくれたらな、って思いました。

    子どもの不登校が親である私と私の親である毒親との関係を教えてくれました。子どもは全く問題はないのに、こじらせた毒親と私の問題が今の一番の課題でした。

    まだまだ、毒親問題という、壮大な課題(解決できないかも?)が、目の前に広がっていますが、まず親の私が、毒親支配から抜け出して、しあわせにならなきゃな💛って思っています。

  5. ゆさ より:

    こんにちは
    いつも、なるほど‼️と思いながら拝読しています。
    この記事、連帯責任が大好きな、息子の中学校の先生方にぜひ読んでいただきたいと思いました。

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