心理学

宿題がやれない、提出物が出せない件

良い子のみんなー。

夏休みの宿題は終わっているかな?

 

課題が出せる人・出せない人

ハイ、ということでね。

今日は、みんなに伝えたいことがありまして。

 

夏休みの宿題に代表される、各種課題や提出物。

やるべきこと。

ルール。

規則。

 

これをね!

守れない人っているよね。(泣)

 

 

この世には、2種類の人間がいる。

「ちゃんとできる人」と、「できない人」だ。

 

あなたは、そしてお子さんはどちらのタイプでしょうか。

これを読んでいるってことは、おそらく後者でしょう。

 

これね。

大人になって本当によくわかったのだけれど。

できる人って、マジでできるし。

できない人は、マジでできないのだ。

これ、マジで。

 

 

人はどうしても、自分を基準に考えてしまう。

自分がそうなら、「みんなこんなもんでしょ」、そう思ってしまう。

 

でも、実はここには巨大な壁があって。

ものすごいデカさの個人差が横たわっているのだ。

 

 

そして、どうやらこれは先天的だ。

生まれつきね、「ちゃんとできる子」と「できない子」とに二分されるようなのだ。

 

問題になるのはいつも「できない子」の方で。

いつだって叱られちゃうのだけれど。

 

これ、サボってるとか性格がだらしないとかじゃなくて。

生まれつきなんよ。

できないの。

マジでできないの。

もう少し大目に見ても……とは個人的に思うのだけれど。

 

できない子・詳細

なぜできないか。

 

みなさんお察しの通り、僕はできない側の人間だ。

そりゃもう、明らかに「できない」。

できない人代表として、できない側の気持ちを表現させていただきたい。

 

「できる人」が素晴らしいのはわかるよ。

そりゃそうだ。

ちゃんと「やることやってる」んだもん。

褒められるべきだし、結果も出せる。

 

そうあるべきだ。

わかってる。

 

でも、できねーんだよ。

 

 

できない人がなぜできないか。

僕の実体験から言うと、「ちゃんとやる」「完遂する」に、あまり興味がないのだと思う。

興味の方向が、「理解する」「納得する」とか、そっちなのだ。

 

だから、着手までのハードルが異様に高い。

全体像が見えて、興味が湧いて、「こんな工夫をしたら楽しいかも⁉︎」とかのアイデアまで乗っかって、ようやく動く。

 

一度火がつけば、そこからの集中力は凄まじい。

でも、そこまでの閾値が鬼のように高い。

たいてい「めんどくさい」が勝つんだよ。

いつだって「めんどくさい」んだ。

 

このタイプ、よく言うじゃん? 「めんどくさい」って。

そういうことだ。

 

 

そして、とりあえず着手したとて、堪え性がない。

最後までやりきれない。

飽きて放り投げる。

別のものに気持ちが移る。

「もうちょっとなのに」「とりあえず完成させて出せばいいのに」……ができない。

 

これさ、逆に「ちゃんとできる人」だとさ、完遂しないと気持ち悪いんでしょ?

それを理解したとき、僕は驚愕したね。

自分の中にない発想すぎて、そんなことってある⁉︎ と。

 

でも、そうなんだって。

決まったら、ちゃんとやるのだ。

課題は出すし、計画は守る。

むしろ、一定の期日やルールがあった方が動きやすいらしい。

 

 

小学生の頃、「夏休みの計画」を書かされた。

僕には意味がわからなかった。

中学生の頃、「テスト勉強の計画」を書かされた。

僕には意味がわからなかった。

 

でも、「できる人」にとっては非常に有用な作業なのだ。

まず計画を立て、それに沿って実行していく。

期日までに完成させる。

それが当然であり、効率的だ。

 

計画性がない・詳細

先日、経営の本を読んだ。

僕なにも経営してないけど、純粋な興味で。

そこに、こんなことが書いてあった。

  • とにかくルールを決めましょう。
  • ルールに守られてこそ、社員は安心してクリエイティビティを発揮できます。
  • 「自由な職場」って聞こえはいいけれど、それはつまり、責任を現場に負わせること。
  • やりやすいようで、まったくそうではない。
  • 社員は萎縮して動けなくなります。

 

へー。

でも、まぁ、納得だ。

この社会は「できる人」を基準に作られている。

「できる人」の方が人口が多いし、特に仕事では絶対に合理的だ。

やるかやらないかわからない人に、仕事を振りたくはない。

 

当然だ。

学校教育も、この前提に則って行われている。

 

そう。

「できない人」は違うのだ。

これが「できない」。

計画など、破綻する気しかしない。

ルールや規則は、破るために存在すると思っているフシすらある。

 

計画を立てさせられる。

それは非常に納得のいかない、無駄な時間だ。

実行できるはずがない。

「毎日1時間ずつ勉強する」とかさ。

 

するわけねーじゃん。

 

やるのは、「気が向いたとき」だ。

それがいつかは自分でもわからない。

でも、火がつけば何時間でも集中する。

そのゴールデンタイムにまとめてやりたいのだ。

 

 

それ以外のときは、基本ダメだ。

「とにかく1時間」「毎日少しずつ」とか、意味がわからない。

狂気の沙汰だ。

「隙間時間に」とかもムリ。スマホ見ちゃう。

 

やるならやるし、やらないならやらない。

その舵取りは自分でする。

気分とか体調とか、そう、いわば「ノリ」で。

我々「できない側」にとって、計画とは、前もって固定する類のものではないのだ。

その場で臨機応変に変えて然るものなのだ。

つまり、不要なのだ。

 

社会不適合者の生きる道

おわかりいただけただろうか。

「できない人」の感覚。

 

社会不適合だろう?

実際そうだ。

 

期日は守れない。

ルールは疑ってかかる。

ただ黙って従うことができず、よせばいいのに「これは何のために?」とか、「もっと良い方法は?」とか、考えちゃう。

 

決まりだから絶対ですかぁ?

先生が死ねって言ったら、死ぬんですかぁ?

を地で行っているのだ。

これは大人になっても変わらない性分だ。

 

ダメでしょう?

ダメなのだ。

社会不適合だ。

自覚はある。

 

 

でも、だからこそ見えるものもある。

社会不適合だから、変人だからこそ、解決の糸口を掴むことがあるのだ。

人と違った視点や発想は、社会において強みとなる。

 

社会を変えるのは、いつだって変人だ。

偉人って、たいてい変人。

そうでしょう?

旧態依然としたコミュニティを変えるのも、膠着した事態を打破するのも、たいていの場合「変な人」だ。

 

多様性が必要なのだ。

きっとこの不便な性質も、「人類」という大枠の中では必要なのだろう。

 

 

この世には、2種類の人間がいる。

「ちゃんとできる人」と、「できない人」だ。

 

自分がどちらか、早めに知っておくと良い。

そして「できない」からといって、それは君の努力不足ではない。

生まれつきの性分だ。

仕方ない。

 

自分を知り、どう社会に適応するか。

例えば今回の話だと、

  • 「できない」からこそユンケル飲んで頑張る。
  • 「できない」から人に ぶん投げる 依頼する。

とかね。

できないなりに、どうしても必要になる場面ってあるから。

「できない」ばかりじゃ結果が出ない。

そうやって、人生の舵取りをしていきたい。

 

自分はどんなカードを持ち、どう切るかってことね。

結局、これにつきる。

配られたカードで勝負するっきゃないのさ。

スヌーピー

 

 

いい大人の僕が、この年齢になって尚「できなさ」を発揮しながらこれを書いている。

この性分は変わらない。

行政系の書類の煩雑さに泣きながら。

 

これ、期限いつなのさ。

もう、絶対ムリだよこんなの。(泣)

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