運動会シーズンですね。
(完成度は他の子より低いけど)
否が応でも他の子と比較し、自分の子どもの欠点が目についてしまう。
こんなとき、「親の私のせいかしら」と自分を責めてしまう親御さんが多い。
他の子より劣っている部分が目について、親の方が不安で仕方ない。
『親の不安』と『子の不安』、混ざっちゃってるんだけどどうすれば?
子供の欠点
運動に限らず、親御さんの目に付きやすいのは子供の劣った点、つまり欠点だろう。
美点ばかり目につき、それについて思い悩む親御さんって見かけない。
「うちの子は運動も勉強もよくできて、すごく優しくて、字もきれい、作業も早いし、ヒヨコの鑑定ではミスなしです! 他の子と比較して出来すぎて心配だわぁ。」
いる?
そんな人いる?
いたら白目をむいて「ハイハイ立派なヒヨコ鑑定士になってくださいね」って言うしかないけど、今のところそういったシチュエーションには出くわしていない。
目がいくのは、どうしても欠点だ。
他の子と比較して、劣った部分。
子供の出来が、親の成績表のように思えてしまう。
違うのである。
困るのは子どもじゃなくて親御さんなんだけど、ごっちゃになってる。
持って生まれた「能力」
外来で仕事をしていると、マジでいろんな人がいる。
言いにくいんだけど、「能力」って人によってすごく差がある。
学力、気持ちを言語化する力、運動神経、美的感覚、記憶力、処理能力、愛嬌、先を見通す力、場の空気を読む力……。
いろんな「能力」があるんだけど、持って生まれた力にそもそも絶大な差があると感じる。
ホント言いにくいんだけど、能力がない人はない。
もう、絶望的にない。
たくさんの子供たちと接する僕の視点だからこそ見える景色だと思う。
- ある人はある。
- 中途半端にある人は中途半端にある。
- ない人はない。
すごく残酷な現実だ。
人間はみんな平等なんて、誰が言った?
ものすごく不平等。(ここでは能力の話です。人権とかは今は関係ない)
「みんな同じ」なんかじゃ、全然ない。
これを埋めることは、親御さんにはできないと思う。
ないものはない。
劣った部分を埋めることって、他人にはムリだと強く思う。
※本人が目標を持ち一念発起した場合のみ挽回できる可能性があると思う。この場合も可能性があるってだけで、結局「ないものはない」という結論に至ることも多い。
不足しているのは「経験」か「能力」か
物事が出来ない理由って、
- 経験がない
- 能力がない
のどちらかだ。
うちの子これが出来ない(苦手、下手など)、と気になった時。
その時に、足りないのは経験か能力か、分けて考えるのは非常に有用だと思う。
① 経験がない
経験がないことはできない。
そりゃそうだろう。
つるかめ算とかさくらんぼ算も、学校では習わない。(今はどうか知らないけど)
習ってないものはできるわけがない。
運動だって、周囲の子がみんなサッカー教室に通っていて、うちの子は特になにもしていないなら、出来なくて当然。
僕だって子供の頃、周囲のみんなはそろばん教室に通っていて暗算ができたんだけど、通っていない僕は全然できなかった。
これは僕の能力的な問題ではなく(その可能性もあるけど)、経験がないことが原因と考えられる。
経験がないからできない場合。
経験を与えてあげれば良い。
具体的にはサッカー教室やそろばんに通わせる。
これは、親御さんにできること。
② 能力がない
でも困っている親御さんの話を聞くと、その子には「能力」がないんだろうなと思うことがほとんど。
経験はみんなと同じだけある。
なのに、できない。
これはもう能力がないのだろう。
能力、つまり遺伝子だ。
受精の瞬間に決まっていた。
遺伝子を操作できます?
ムリよな。
もう、仕方がない。
「そういう子」だ。
親御さんにどうこうすることはできない。
すごく残酷な言い方だけど、僕はそう思う。
僕は小学生の頃、そろばん教室へは行かず学童クラブに通ってたんだけど。
で、一輪車と竹馬は超絶ヘタだったんだけど、けん玉はなぜかちょっとうまかった。
経験は同様にある、でも能力の有無で結果が全然異なる。
僕が一輪車に乗れるようになることは、おそらく一生ない。
能力の有無の一例だ。
やる気が出なくて。
やればできると思うんですけど。
この場合も、足りないのは「経験」じゃなくて「能力」だ。
経験するという能力(ややこしい)が欠如している。
親御さんはやらせようとした。
でも、本人がやらなかった。
運動したがらない子は、親御さんが運動を制限したわけじゃない。
学校に行かない子も、学校に行ける環境はあるけど本人がどうしても行けなかった。
経験したら楽にできるようになるかもしれないが、その子には経験する能力がなかったのだから仕方がない。
「本人がやろうと思えば実行できる環境」を与える以外、親御さんにできることはないと思う。
実際にやるかどうか、そして花開くかどうかは本人次第。
なので、本人がやらないならもちろん親御さんの責任ではない。
遺伝子の問題だ。
まとめ
子供の欠点が目についたとき、ただ闇雲に不安がるのではなく、足りないのは「経験」か「能力」か分けて考えるのはとても有用。
そして大抵の場合、「能力」の欠如だ。
出来ないものは出来ないし、親の責任でもなければ本人の責任でもない。
これを埋めるのはとても難しい。
親御さんは経験の場を与える以上のことはできない。
逆に言えば、経験する機会さえ与えておけば、それで親の務めは十分果たしていると思う。
どーんと構えてお子さんを見守ってやってください。
あとは子供が自分でなんとかしますから。
いつも、本当に参考にさせて頂き、助けていただいています^ ^
今日の記事でコメントのこと書かれていたので、ずっと書こうか迷っていた事を、、。
だいぶ前に、運動会前に荒れていた時にブログ内で検索して、この記事を読みました。コメントで、「コンプリメント」のことを書かれていた方がいたので、検索して自己流でやってみました。ら、確かに、びっくりするくらい速攻で効果がありました。
私の考察として、ASD、知能やや低め、で、褒めているつもりが伝わってなかったのかも?胡散臭いくらいの定形文が、入りやすいのかもしれない、となりました。
注意したり叱ったりする方も、「これがNGなだけであなたはNGじゃない」と(一応)気にしていたつもりですが、本人にはそうは伝わってなくて、軽い愛着の問題が起きてるような、と思っています。
ASD+愛着障害について、機会がありましたら取り上げて頂けたら嬉しいです!
(記事と直接関係ないので、埋もれそうかな、とここにコメントさせていただきました。すみません。)
小児科医、高橋先生の「最高の子育て」という本読みました。
全部遺伝。隔世遺伝含めて。 が主旨な感じでした。
まあ、親がこんなんやもん、仕方ないわ、
とかなり笑えるようになりました。
最近は諦めて笑って子育てしてますが
ばあちゃんは期待していて大変。
ばあちゃんの孫だもん、
そんなにはうまくいかないさ、、
諦める、過度な期待しない、受け入れる。全部似てますね。
そこで腐らず、人と比べず、マイペースに楽しく、一歩一歩進んでいけばいい。
個性のかたまり。
個性は大好きだけど、学校で楽しく過ごすために、普通寄りに矯正中。
いじめ回避。
オランダは自己肯定感が高い子が多いようですね。
日本は、定型発達の子も含め、自己肯定感が低い。
文化、教育の違いなんでしょうね。
いいとこに目を向けつつ、コツコツやっていこ。
元々先生の様々な記事に納得してたものなのですが、最近コンプリメントなるものに出会い、娘への接し方を変えたら、みるみる元気になり活力が戻り、様々な能力も高まってきました。
能力がないと諦めるのではなく、親がしっかり子供を観察して小さな能力の芽を育んであげるかあげないかで、表面的な能力は大きく変わるなと実感してます。
不登校も、コンプリメントによりその子の持っている良さに気づかせてあげ自信の水が溜まると楽しく学校に通い出す子も多いみたいです。
なので、学校に合わないのは子供の気質と割り切るのは違う気がしてきました!(そもそも私は学校に価値をあまり見出してはいないのですが。)
自信の水不足な子供、多分ものすごく多いと思われますー!一度先生にも、コンプリメントの本読んでみてほしいです。
初めてコメントさせていただきます。
子供の出来が親の成績表のように感じられる、まさに最近、そんな思いでいるところでした。
うちの五歳の息子は体操教室に通っていますが、身内に運動神経に優れた人があまりいないからか、頑張ってもなかなか周囲に追い付けないことが多く、親としては複雑な思いでいます。
本人は「どんなことでもやれば昨日よりうまくなる!」と言ってコツコツやっていて確かに少しずつうまくはなっていて、親も一緒に喜びますが、いざ教室となると親は内心、まわりとの差にがっくりきたり(もちろん、息子には言いませんが)。
こんなとき、なかなか私の目を彼個人だけにフォーカスするということが難しいです。どうしても周囲のできるお子さんが目に入ってしまう。いいなあ羨ましいなあと思ってしまうのです。
息子は自分が出来なかったことがわかっていて、それをどうしたらいいかと私に相談してきたりもします。
そんなとき、彼の現状を彼とともに淡々と見つめ、やる気にさせ、励まし、「やったね! これをこうしたから出来たんだね!」などと一緒に喜ぶ。
その流れに親として疲れたりします。自分の感情をおさえて、息子に良い影響を与えなければと心にふたをして女優のように励まし続けるのがしんどいなあと思います。
ゲームのようにリアルタイムでパラメーターの増減がわかったらもう少し気楽なのになと思います。
見えない先を目指していくというのは、なかなかきついものですね。
ちなみにうちには七歳の娘もいるのですが、彼女も運動はできないほうです。
本人は「私は足は遅いから徒競走は無理。でもボールは投げられる」と、出来そうなことに関してのみ努力をしているようです。ただ、羨ましい気持ちはあるようです。運動ができる子のほうが教室では輝けるようなので。
親としては子供が可能な限り、学校や幼稚園で楽しく過ごしてほしい。だからもう少し運動ができたらなと願うけれどもおっしゃる通り、遺伝子レベルで出来ること出来ないことがあるわけで。
そのへんを一定の諦めとともに飲み込んで、そこからどう子供達に並走していくか、悩ましい限りです。
どーんとかまえる、なかなか難しいです。。。
初めまして。
納得するような納得したくないような気持ちです。
能力ないものはないと言われると身も蓋もないですね,それが現実ですね。
でも親の責任のような気がして、まだ乗り越えられません。5歳になっていない段階でこれを言われたらとても悲しいです。