「休み癖がつくからちゃんと学校に行きなさい!」
よく聞く言葉だと思う。
でも僕はこの『休み癖』という言葉に違和感を覚える。
はて、『休み癖』って一体なんぞや…。
似た言葉に、『抱き癖』というのがある。
昔の育児で使われたそうだ。
「抱き癖がつくから泣いても抱っこしちゃいけない」と言われてきたらしい。
今は完全否定されており、踏襲する人はほぼいないだろう。
泣くのは赤ちゃんからのSOS。
すぐに対応することで、「すぐそばに守ってくれる人がいるよ」という安心感を与える。
繰り返すことで安心感が養われ、少しずつ親から離れられるようになる。
何かあったらママがきてくれると思うと、安心して外の世界へ踏み出せる。
これが今の育児のスタンダード。
反対に、泣いても抱っこしないと、赤ちゃんは自分を守ってくれる人が誰もいないと思う。
生死に関わるので精いっぱい泣くが、それでも抱っこしてもらえない。
すると、次第に諦めて泣かなくなるそうだ。
反応がないのに泣き続けたってエネルギーの無駄だ。
訴えを表出しない、親にとっては育てやすい子になるらしい。
サイレント・ベビーというそうだ。
3歳頃までに養育者(親であることが多い)にめいっぱい甘えられなかった子は、愛着障害と呼ばれる状態になる。
こんな実験がある。
部屋から親が出て行き、子供を一人残す。
子供は取り残され不安だ。
そこへ親が戻ってくる。
親に甘えて育った子は、親に抱きついて離れようとしなくなる。
甘えられずに育った子は、「俺を置いていきやがって」と親を回避したり、親に無反応だったりするそうだ。
何が言いたいかって、泣くのは子供のSOSってこと。
それを大人の都合(泣かない方が育てやすい)で対応(抱っこ)しなければ、人格形成に歪みが出るのは当然だと思う。
さて、『休み癖』。
『サボり癖』とか『逃げ癖』も同義だろう。
子供が休みたいと言っているときに、「休み癖がつくから行きなさい!」と諭す。
これってどうなの? という問題提起なわけですが。
そりゃあ学校に行ってくれたほうが、親は安心。
でも、子供のSOSはどこへ?
『休み癖』という名前をつけられると、子供はその癖って悪いものだと思うだろう。
深く考えずに、じゃあ避けようと思うかもしれない。
悪い癖がつかないように、休みたくても行かなきゃいけない……。
その場はなんとなく納得した気になり、登校する。
それが続くと、「休みたい」と言えなくなる。
言ってもどうせ無駄だし。
自分の気持ちにフタをし、何も訴えなくなる。
サイレント・小学生にならないだろうか。
もちろんわかる。
『休み癖』ってつまり、一回休むと次も休みやすくなり、ズルズル休みが嵩むってことだろう。
休みが嵩むと登校のハードルが上がり、その時あなたが困るのよってこと。
わかってる。
でもその説明を省いて、『休み癖』の一言で済ませてしまうことに僕は違和感を覚えるのだと思う。
じゃあそう説明してあげたらいいのに。
休むと次も行きづらくなるからよく考えて、って言えばいいのに。
それを承知で休みたいなら、選ぶ権利は子供にある。
天秤にかけさせてあげるべきじゃない?
そんな逡巡をすっ飛ばして「休み癖」の一言でぶった切るって、あまりに横暴じゃない?
不登校の子は、なぜ学校に行きたくないのか、明確には自覚していないことが多い。
でも、どのくらい強く行きたくないのかは考えることができるはずだ。
今後のリスクを考えて、それでも行きたくないの?
それとも、そこまででもないからとりあえず今日は行っとく?
そんな逡巡から、じゃあなぜ行きたくないのか、どんな状況になったら行けそうか、本質的な部分が見えてきそうなものなのに。
問題の根本にアプローチする、絶好の機会なのに。
実にもったいない。
不登校が子供からのSOSであることは、間違いないと思う。
そんな時こそ、親御さんが寄り添ってあげてほしい。
そうなんだね。
じゃあ今日は休む?
それだと明日もっとしんどくなりそう?
少し頑張って学校に行ったほうが、明日以降が楽かな?
そんなことより今この瞬間がつらいのかな?
一緒に考えてあげてほしい。
『休み癖』というラベリングを剥がした下にその子の本質があると、僕は思う。