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親の視線と、子供の目に映る世界

ふと思ったのだが。

親が子供をどのように見るかって、そのまま子供の感じる「世間の目」に転化されるのではなかろうか。

 

 

僕は母親からネグレクトされて育った。

いいことも悪いことも必要なことも、母は興味を示さなかった。

 

僕は人にあまり興味がないのだけれど。(それで人を不快にさせることがあるようだ。何度か指摘されたことがある。)

それって僕が、「人は僕のことなんて興味ない」と思っているからかもしれない。

 

母親が僕に興味を持たなかったのと同様に、『人』(誰だか知らんけど)も僕に興味を持たないと思っている。

ゆえに、人にあまり興味がない。

 

のかもしれないと思った。

 

 

「人の目が怖い」

不登校やHSC、発達障害なんかでよく聞く言葉。

人にどう思われるか気になる。

 

『人の目』を気にしすぎるあまり、色々不都合が起きる。

 

人に合わせすぎて疲れてしまったり、

自分の意見が言えなかったり、

失敗を過剰に恐れたり、

どう思われるか怖くて学校に行けなくなったり。

 

 

これってそのまま、「その子が親からそう見られてる(と本人は思っている)」ってことなんじゃないかと。

いや、僕の勝手な仮説だけど。

 

 

親の顔色を伺わないと、愛してもらえない。

親は自分の意見を聞いてくれない。

失敗したら、親が落胆する。

親は遅刻や五月雨登校なんて恥ずかしいと思っている。

 

 

だからそっくりそのまま、『人』(友達とか先生とか近所の人とかペリーとか)も自分をそう見ると思っているんじゃなかろうか。

だから、「人の目」が怖い。

 

 

これって、ひとり相撲だと思う。

『人』はそんな風に思っていない。

むしろその子にそこまで興味がないことが多い。

その子が遅刻しようがどーでもいいし、意見があるなら言えばいいと思っているだろう。

他人にさほど興味はない。

 

 

なのに、その子の中で勝手に、

「人はこんなふうに自分を見る」

と決めつけている。

 

ちゃんとしないとバカにされる。

自分には価値がないから頑張らないと。

そのままの自分では受け入れてもらえない。

 

その子が受け取った親の目線が、そのままその子の中で不特定多数の『人の目』になるんじゃなかろうか。

 

 

 

だとしたら、それってひどく生きづらい。

誰かが何かをしていたら、他人は好きでやっていると判断する。

 

例えば自分の意見は言えず、聞き役に回ってばかりの子。

周囲は、人の話を聞くのが好きな子だと思う。

だからその子に相談したり、愚痴を聞いてもらったりする。

でも本人は、自分の意見を押さえつけて、ストレスを溜めまくっているかもしれない。

「我慢して意見を合わせないと、居場所がなくなってしまう」

そんなふうに思って、我慢を積み重ねていく。

我慢すればするほど、周囲は新たな相談を持ちかけてくるだろう。

 

 

クラスで道化を演じている子。

ちょっとバカにしたようなことを言われ、内心とても傷ついている。

でも「我慢して」、笑って受け流す。

すると周囲は、この子はこんなキャラでいたいのだと判断し、さらにエグい「いじり」へと発展する。

 

 

どうしてこうなるかって、本人が嫌と言えないからだ。

なぜ嫌と言えないかというと、そのままの自分では受け入れられないと思っているから。

なぜそう思うのかというと、親がそのままの自分では受け入れないから。

 

みんなも同様にそのままの自分では受け入れてくれない、と思ってる。

価値を提供しないと愛してもらえない、と思っている。

 

つまり、自己肯定感が低い。

 

 

 

世間って結構優しくて、上述の子たちだって本人がキレればきっと周囲の接し方は変わる。

周囲は、本人がそれを望んでいると思っているだけなのだ。

そこに悪意はない。

だから、望んでいないのならやめる。

そして、それならそれで別の立ち位置を作ってくれるものだ。

 

 

なのに、本人にはその優しさを受け入れる受け皿がない。

完全なひとり相撲で、ひとりで傷ついている。

 

 

世間は優しい。

「自分ってこういう人間だから受け入れて!」と開示すれば、そのように接してくれる人は多い。(もちろん全員ではないけど)

この優しさを受け入れられると、この世って『その人の中では』すごく優しい世界になる。

 

反対に優しさを受け入れず、つまり自分を開示せずに、「頑張らないと受け入れてもらえない」とひとり相撲すると、『その人の中では』ものすごく冷たい世界だ。

 

 

 

僕の仮説。

自己肯定感って、イコールその子が受け取る親の視線なんじゃなかろうか。

※親はそんなつもりなくても、子供がそう受け取ったらそうってこと。

 

親から「あなたのそのままを受け入れます」という視線で見られていると実感できる子(本人がそう思えるってことが大事!)は、人(誰だか知らんけど)も「あなたをそのまま受け入れます」という視線で見る「はず」と思う。

だから自分は大丈夫!

不登校でも別にいいし、やりたいことがあればやってみようと思える。

 

これが自己肯定感の正体、という仮説。

 

そして自己肯定感が高ければ、必然的に優しい世界に生きることになる。

自己肯定感が低ければ、冷たい世界に生きることになる。

 

 

 

 

もし僕の仮説が正しいとしたら。

親御さんの視線がその子の世界を作るとしたら。

 

「不登校なんて恥ずかしい」

「みんなと同じにしないといけない」

「最低でも〇〇大学を出ないとかっこ悪い」

「アレした? コレ持った? 失敗しないように」

「あなたは〇〇だからこれは出来ない」

「お母さんはあなたのためを思って言っているのよ」

 

こんな眼差しでお子さんを見たら。

こんなメッセージを送り続けたら。

 

お子さんは、ひどく冷たい世界に生きることになってしまわないだろうか。

ひとり相撲で、ひとり傷つきながら。

 

 

 

やっぱり、その子をそのまま愛してあげることだと思う。

親が愛して信じてくれるなら、欠点なんて乗り越えていける。

だってその子は、優しい世界に生きているのだから。

自分ひとりで頑張らなくても、周囲が助けてくれると知っているのだから。

 

 

 

 

 

※以下、関係ない人は読み飛ばしてください。※

 

僕の外来に来る子は基本的に、親御さんが支持的だと自己肯定感が高く、親御さんが批判的だと自己肯定感が低い。ほとんどの子にこの傾向が見える。

でもたまに、親御さんがとても受容的なのに、なぜか自己肯定感が低い子がいる。そんな人の話。

なので関係ない人はスルーしてください。

 

自己肯定感が高い子は、例えば不登校だと、「学校は大嫌いだけど、お母さんは自分のことを理解してくれるから別によい」と前向きに考えている。不登校を後ろめたく思っている様子がない。そしてそのうちに自分に合う場所を見つけ、再出発する。

上述の、親御さんが受け入れているにも関わらずなぜか自己肯定感が低い子は、「お母さんは自分の気持ちを最優先してくれるって頭では分かっている。でも本音では不登校は恥ずかしいと思っているんじゃと考えてしまう」と言う。だからどうしても学校に行かなくちゃいけないんだけど、でも行けない自分を責めている。

 

僕から見てもお母さんはとても支持的で、その子をそのまま受け入れている。お子さんに聞く。「あのお母さんに限って不登校だからってあなたを恥じるはずないでしょう?」

すると、「分かってる。でも、どうしても不安になってしまう、やっぱり学校に行かないと呆れられちゃうんじゃないかって」と。

 

HSCタイプのルールを真面目に遵守しようとする子に多いだろうか。お母さんの優しさをそのまま受け入れられない子が、一定数いるようだ。これが、「と本人が受け取ることが大事」という文言の意図。

実は、そんな子から今日の話を思いついた。親御さんが否定的な場合も、肯定的だけどお子さんが受け入れられない場合も、「親は不登校がダメだと思っている、と子供が思っている」という結論は同じになるんじゃないか。だから自己肯定感が下がるのではないか、と。

そして上述のタイプの場合、親御さんはお子さんが不安に思っていることに全く気づいていないようだ。まさかそんなこと、とおっしゃる。当然だ。でも子供は、「それでも親の視線が怖い」とはっきり言う。「分かってはいるんです。お母さんは悪くなくて、これは自分の問題です」と。

これは、お子さんの性格だと思う。慎重というか、慎重すぎるというか。超ネガティブというか。お母さんの対応には何の問題もない。

ただこんな子の場合は、思っている感じの100倍くらい気持ちを伝えないと信じてもらえないのかな、と思ったりした。結局、お子さん本人がどう受け取ったかで決まるのかな、と。だから、お子さんがそう思っている、という記載をつけています。

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