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大人の情報処理 〜成長すると失うもの〜

前回の続き。↓

子どもと大人の違い。大人になるということ。 〜情報の刈り込み〜子どもは、大人ではない。 大人とは違う。 では、具体的に何がどう違うのだろう。 子どもは、どうやって大人になっ...

 

前回、子どもの情報処理について書いた。

情報をシンプルに記号化して知覚するのが、大人になる(社会性を獲得する)ってことだ。

 

 

でもさー。

たくさんの子どもと接する中で、僕、思うんだよ。

 

大人よ、それでいいのかい?

 

大人たちよ

いつもの通学路。

子供には、情報の宝庫だ。

蹴りやすい石、横断歩道のシマシマ、雨上がりのぬかるみ、霜柱を踏む感触……。

 

情報の宝庫。

子どもにとっては宝の山。

タイルの白いとこだけ踏んで帰れたら、もうヒャッホウ! だ。

 

 

それが、大人にはこうだ。↓

 

 

 

大人よ、コレでいいのかい?

 

 

確かに、子どもは問題がある。

問題というか、『困る』。

社会的にそぐわない言動をする。

 

大人はない。

社会的なルールをよくわかっている。

阿吽の呼吸で、それが当然だし、自然だ。

 

でも、社会性を得る代わりに、失うものもあるように思う。

世界って、当たり前でシンプルな、つまらないものだったっけ?

 

大人になるということ

ここからは、完全に僕の私見なんだけど。

 

人にはそれぞれの視点がある。

情報は、人によって入るものと入らないものとがあって。(窓)

入った情報をどう解釈するか(玉)は、人による。

結果、出てくる具体的な言動が、矢印だ。

 

 

大人になるにつれて、一般的に窓は減り、玉も均一に近づく。

歳をとって「丸くなる」って、まさに球が「丸くなって」いくような感覚を覚える。

 

  • 情報をパターン化して知覚する。
  • 経験から、可能性の回路が減る。
  • →結果、判断が容易に。

 

それ自体は、基本的には良いことだ。

社会と摩擦なく生きていける。

 

 

でも、その過程で無くしたものもあるように思う。

 

道って本当に、そんなにシンプル?

 

↑これも

 

↑こっちも、

 

↑どちらもコレに収束されるのか。

 

どちらも同じ『道』だが、どちらも『同じ道』なのか。

そんなことはないだろう。

(ちなみに前者北海道、後者沖縄です。)

 

 

もっと言うと、これらだって↓↓↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全部、『道』だよ?

『道』だけど。

 

全部、『道』の一括りで、こう?↓

 

そんなの寂しいし、つまんない。

 

全部「道」だけどさ。

でも、どれも全然違う。

それぞれが情報の宝庫だ。

 

 

上の写真たちは、それっぽい、旅情感? のあるものを選んでいる。

だから目を惹くけど。

でも、「いつものあの道」は、無味乾燥としたただの記号なのか。

 

きっと旅情の道でも、それが「日常」「当たり前」になる。

すると通り過ぎ、記号化してしまう。

それが大人だ。

でも、つまんないと思う。

 

シンプルって、便利でつまらない

大人って、大人になるって、シンプル化が求められる。

それはわかる。

 

余計なことを省いて、パターンで知覚する。

それが「当たり前」。

そうするとうまくいくし、そうしないとうまくいかない。

わかる。

 

人間、加齢とともに鈍くなるのは自然なことだ。

そして「他者と同程度の鈍さ」が、一番摩擦が少なく、一番楽。

学校でも、社会でも、それを求められる。

わかる。

 

「そんな余計なこと」

「そんなこと気にせずに、やるべきことをやれ」

「みんなそうしている」

 

言われる。

わかる。

わかるのだけど。

 

 

つまんねーなオイ!

 

 

僕は子どもと接する仕事をしている。

子どもの視点を思い出させてもらう場面がある。

 

この子は、どんな景色を見ているんだろう。

どの程度の抽象度で理解しただろう。

子どもによって、年齢によって、全然違う。

目線が合った(と僕が思っている)とき、その子の言葉が生きる。

体温を持ち、しっかり意味を持つ。

 

あぁ、そういうことだったのか。

この視点に立つと、言ってること、よくわかるよ。

 

自分にない視点を見せてもらえる瞬間がある。

 

一見すると困りごと。

社会にそぐわない、困った行動。

でもその子の視点では、当たり前の、全然理解できる言動だったりする。

 

 

子どもに社会性を身につけさせることは、もちろん必要だ。

大人の視点に、子供を引っ張り上げる作業ね。

同時に、子どもの視点に大人が降りていく場面がもう少しあっても、良いんじゃないかと思う。

子どもの視点に、大人が寄り添う形だ。

 

そして。

大人が先がよい。

 

大人だもんで。

いつだって、大人が先だ。

 

①大人が先に、子どもの目線に立つ。

「あなたはそう思うんだね」の、魔法の言葉を添えて。

②そのあとから、子どもを大人目線に引っ張り上げる。

つまり、社会的な正解を教える。

↑この順番がよいと、個人的には思う。

 

大変?

イライラするよね。

子ども、無茶苦茶なこと言うし。

わけわかんないし、宇宙人だし。

 

でも、大変だけど、得るものも大きい。

 

 

僕は、子どもと接する仕事をしている。

子どもと接する仕事ってさ、大変だけど、やっぱり人気もあって。

この作業って、魅力的なのだ。

 

仕事じゃなくて、育児もそうでしょ?

大変だけど、良いこと、ステキなこともそれ以上に多くて。

 

僕は子どもが好きだ。

うるさくて、言うこと聞かなくて、突拍子もなくて、手がかかって。

なのにいじらしくて、気ぃ使いで、よく見ていて。

 

なにより、子ども特有の感性が好きだ。

記号化される前の、カオスで、体温を持った、瑞々しい感性が好きだ。

 

そりゃ矯正も必要だけどさ。

この子も社会で生きていくわけで。

でも、この子だけの、この世界観を大事にしたいなとも、同時に思う。

 

まとめ

色々書いたけど。

結局、言いたいことは、コレだ。↓

 

気づいた方もいたかと思うが、

提示した写真は、全て僕が撮り溜めたものだ。

その撮影センスを賞賛すると良いと思う。

 

現場からは以上です。

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