読書の秋ですね。
行楽の秋でもありますね。
読書感想文が書けない子がいる。
イベント等の感想を聞かれても、答えられない子がいる。
この傾向は、ASD (自閉スペクトラム)タイプで特に顕著。
ADHDも書けないんだけどさ。
ADHDは、
「(何を思ったのか)もう忘れた!」
なのに対し、ASDは
「特になし。以上。」
な傾向がある。
そしたら、そりゃ、まぁ、書けないよね。
自他境界の薄いASD
この話を書いていて思ったんだけど。↓
ASDは、自他境界が弱い。
「自分」と「人」の線引きが弱い傾向にある。
だから人に興味ないし、ひいては自分にも興味がない。
でさ。
読書感想文って、こうじゃん?
本を→読んで→感想。
こういうことですよね。
なんだけど。
よく考えたら、これだけでは、読書感想文って成立しなくて。
「感想文」という体裁をとるためには、この構図が必要。↓
本を→読んで→感想を→先生に伝える。
ね。
「先生に何を伝えるか」
「先生はどんなことが知りたいか」
「先生はこの本を知らないかもしれないから、あらすじを説明する必要がある」
とか、そんなことを考えるじゃん?
じゃないと、「感想文」として成立しない。
でさ。
さらに言うと、こうだと思うのよ。↓
本を→読んで→感想を→先生に伝える→そんな自分を俯瞰して見る。
そんな自分を俯瞰して見る。
↑ココ、感想文のキモ。
この視点がないと、感想文って厳しいと思ったんだ。
「先生は、生徒の作文から内容の理解度や感じ方を知りたいのだろう。」
「じゃあ自分は、面白かったこのシーンを、実体験を交えて書こう。」
こんな視点。
「人に伝える自分」を、客観的に見る自分。
この、客観的に見ている自分が、感想文を書くわけだ。
書くのは、本を読んだ自分じゃない。
それでは、「感想文」の体をなさない。
「本を読んだ内容を先生に伝える自分を客観的に見ている自分」。
↑この人が書くのだ。
これ、すなわち感想文。
ここが難しいところですよね。
ASDの視点
ASDは、自分と他人の境界が弱い。
本を→読んで→内容を先生に伝える。
しかも、一連マルッと俯瞰的に見て伝える。
この視点移動には、自他境界がめっちゃ必要。
難しいと思うんだよね。
ASDの視点は、こうなりがち。↓
本を→読んだ。
以上!
だから、感想とかいわれても、特にない。
面白かったけど、どこがどんなふうにとか、説明できない。
自分の思いを人に伝えるスキルを持たない。
相手が何を知りたいか、どこをどう説明すればいいのか、さっぱりわかんない。
この能力って、学校で習う類のものではない。
後天的に学習する能力じゃないと思うんだよね。
生まれつきの、「そういうものだよね」って能力。
定型発達や、その他大部分の人は、当たり前に獲得していく能力。
そこに特別な訓練を要さない。
でもASDは、その特性ゆえに習得できない。
その感覚が「ない」のだ。
自他境界が薄いから。
※このへんを訓練するのがSST (ソーシャルスキルトレーニング)
このギャップが理解されづらい。
ASDタイプは世の中の少数派なので、
と、なりがちなのだと思われる。
例えば、ここにこんな文章がある。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
これを要約しろと言われたら、例えばこんな感じ。
要約:
春は明け方がキレイだよね⭐︎
これって、
文章→読んだ自分→古文はよくわからないけどザックリ内容を知りたい人→その人に伝える自分
を想定して初めて、この要約になる。
この視点で考えて、ようやくこの要約になる。
ようやくこの要約になる。(2回言った!)
これが、ASD視点だと、こうだ。
要約:
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
だって、そう書いてあるもん。
文章→読んだ自分。
以上!
要約なんて、紫式部に聞かないとわかんないし。
書いてある情報は、すべて等しく重要に決まってるでしょ。
こんな感じ。
「要約して示す相手」とか、「自分と相手を俯瞰してみて」といった視点がないので、こうなる。
あ、紫式部じゃなくて清少納言だっけ?
マジ、春はあげぽよ。
そして、これは生まれ持った気質だ。
この人の努力不足とかそういった話ではない。
そして、当然だけど、この気質が悪いわけではない。
少数派だから誤解されやすい、トラブルになりやすいってだけ。
気質自体が『悪い』わけではないと僕は考える。
ちなみにHSCの視点
話のついでに、ASDと同様に自他境界が弱いHSCだとどうなるか。
きっとこうだろう。↓
本→読む自分→先生に伝える前に、他の子はどんなこと書くかな→目立たないように、無難に書きたい→こんなこと書いたらヘンかな→先生はどう受け取るかな→おかしな感想だと思われたらどうしよう!
こんな感じだろうと予想する。
本と自分と先生だけの関係ではなく、他の子や一般的な内容とか、どう評価されるかとか他児との関係性なんかの、余分な情報が流れ込んできちゃう。
「感想文とはこいうものだ」的な刷り込みとかさ。
もしくはこう。↓
本→読む自分→みんな大体こんな感想文を書くだろうな→先生はこんな内容を期待しているだろう→忖度して、こんな風に書けばウケが良いに違いない
前者は、考えすぎて筆が進まないパターン。
後者は、あることないことスラスラ書けるパターンだ。
いずれも、「本」「読んだ自分」「伝える先生」という境界が薄いから。
それ以外の外側の情報が流れ込み、ごっちゃになる。
書けなくなるか、大人ウケを狙って思ってもいないことを書くか、いずれも根っこは同じだ。
これと比較すると、「春はあけぼの→春はあけぼの」のASDの方が、純粋で良いような気もしてくる。
周囲が見えない分、その人独自の考えを、そのまま率直に書ける。
でも、賞を取るのは大人の意図を先回りして書くHSCタイプ。
どっちが良いでも悪いでもない。
もちろん、定型発達の捉え方が「良い」わけでもない。
まとめ
ASDは自他境界が薄い。
なので、感想を求められる場面とか、自分の考えを述べる場面とか、弱いよねって話。
感想を述べるって、
出来事→自分→伝える相手→それらを全部俯瞰して見る自分
が揃って初めて適切なアウトプットとなる。
難しいよね。
そりゃ、
「感想:特になし。」
「感想:楽しいお話でした。」
になるよねって話だ。
たかが読書感想文。
されど読書感想文。
ここまで視点を移動して、ようやく要約できるって話。
ようやく要約できるって話だ。(2回言った)
春はあげぽよ。