ADHDもそうだけど、ASDでもそうだなぁと思っていること。
両疾患の共通点。
好き・嫌い(快・不快)で動く
ってこと。
ADHDでわかりやすいだろうか。
どんな行動をするか、何を選ぶかの判断基準が、基本的に「好きか、嫌いか」だ。
ゲームばっかりして宿題しないのは、ゲームが好きで宿題は嫌いだからだし。
好きなことには過集中し、嫌いな作業(片付けとか事務作業とか)はどーーーーーしてもムリ。
やるべきことがあっても、他に興味が移ったらブラックホールに消えちゃうし。
基本的に「好き」とか「快」が勝つ。
勉強だってそう。
興味がないとやらない。
でも、興味を持つとめっちゃやる。
子供っぽく自由奔放に見えることが多い。
悪く言うと、ワガママで浅はか。
ASDも、判断基準は「好き・嫌い」「快・不快」だと思う。
好きな刺激だけを求めて、特定の何かにどっぷり浸ったり。
変化が苦手なのも、変わらないこと、既知のことが「快」なのだろう。
ASDは基本的に、「嫌なことはイヤッ!」よね。
興味ないことはトコトン興味ない。
だから人に合わせられない。
意思が強く見える。
悪く言うと頑固。
このように、ADHDもASDも、「好きか嫌いか」「快か不快か」が判断基準となるように思う。
この視点で見ると、両疾患は結構似ている。
こう書くと、
逆に、他にどんな判断基準があるの?
と思われるだろうか。
人間なんて基本的にみんな自己中じゃん? と。
それはそう。
みんな自己中。
なんだけど、人の行動原理は「好き嫌い」ばかりではない。
例えば。
「これが正義」という価値基準があり、それを第一に重んじる人がいる。
「社会のルールは絶対」とか。
「上司の言うことには従うべき」とかさ。
体育会系の人を考えてもらうとわかりやすいだろうか。
自分のことは後回しで、上の命令が絶対だ。
あと風習とか習わしとか、模範とか規範とかが判断基準になる人も。
そんな「確固たる何か」を基準に動く人。
個人的な好き嫌いを排し、徹底的に合理的に判断する。
データやエビデンスで決めたり。
少しでも確率が高い方を選ぶとか。
スペックを比較し、吟味する。
効率厨。
「適合しているか」「合理的か」が判断基準。
自分の好き嫌いを排し、「人の役に立つか」で判断する。
人に喜んでもらえることが、自分の喜びとなる。
つらそうな人がいたら、自分の体調不良を押してでも助けようとする。
頼まれると断れない。
で、誰かに感謝されると最高に嬉しい!
好き嫌い以外の判断基準って、例えばこんな感じ。
自分の感情じゃないところに判断基準がある。
でも、「この人の判断軸はコレ!」って決まっているわけじゃなくて。
一人の人がいくつか(2〜3個)の判断軸を持っているのが普通だと思う。
時と場合によってどの軸で判断するかが変わる。
ちなみにROLAND様の判断基準は「俺か、俺以外か」だ。
カッコイイ。
あと、どの基準が良いとか悪いとかはないです。
どの軸にも良い面と悪い面とがある。
好き嫌いでの判断も、一見厄介そうだけど、他人軸で生きて自分を見失っちゃってる人なんかは参考になるところが大きいと思うし。
でね。
ASDやADHDの人は、好き嫌いの判断が強いように思う。
特性の強さに比例して、好き嫌いの占める割合が大きいようにも思う。
あ、もちろんASDやADHDの人でも、判断基準が「好き・嫌い」だけってことはないです。
他の基準も持ってます。
何を持つか、どのくらいの強さかは人によるけど。
例えば僕(ASDタイプ)なんかは、「好き・嫌い」と「合理主義」の基準軸を持つ。
感情で判断し、かつ冷徹なタイプ。
典型的な「嫌なヤツ」。
漫画やアニメだと完全に敵キャラだ。
で。
特性を強く持つ人は、やっぱり「好きか、嫌いか」が強く出るなぁと思う。
発達障害で問題となってくるのが、社会適応なわけだけど。
嫌でもやらなきゃいけないことがあるだろゴルァ‼︎
ってやつね。
多少なりとも我慢して嫌なことに取り組めるかどうかで、社会適応が大きく変わる。
取り組めないと、適応できない。
適応できないと、「困っちゃう」わけです。
周りも、本人も。
じゃあどうするかって、難しいんだけど。
何度も書いている通り、『玉』は変えちゃダメだ。
その子がそう判断するのは、そういう『玉』を持つからで。
ここをねじ曲げても、きっとロクなことにならない。
とすると、窓を閉じるか、矢印を変えるかなんだけど。
窓を閉じるのが環境調整。
トラブルの起きそうな場面を極力避ける。
何かあっても努めてスルーするとか。
矢印を変えるのがソーシャルスキルトレーニング(SST)。
「こういうときはこう行動する」という模範解答を事前に学習しておく。
結局経験よな。
経験から、「嫌だけど、ここはちょっと頑張って(逃げて)おこう」と思えるようにようになる。
別の判断軸が適用できるようになってくる。
自分の特性を知ること
結局ここだ。
ASDやADHDなら、「好き嫌いが判断基準になりがち」と知っておくこと。
その上で、デメリットを減らし、メリットを増やす。
この場合、周囲に適応しづらいのがデメリットだ。
メリットは、周囲にまどわされず好きなことに没入できること。
こうやってバランスをとるのが、「配られたカードで勝負する」ってことだと思う。
配られたカードで勝負するしかないのさ。
スヌーピー
自分(玉)を変えるんじゃなくて、自分をよく知り、配られたカードで勝負すること。
デコボコを持って生まれた我々にできることって、それしかないように思う。
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途中で送信してしまいました。
以前は家族と外へ行っていましたが
少しずつ家族以外の人と関わりを持とうとしています。
夏休みに発達障害の子供を対象にしたボウリング大会に誘われ、本人にどうするか聞いてみたところ
参加してみる、と言いました。
ボランティアさんで初めて会う方たくさん、
慣れていない友達ばかり、
30人以上という大人数、
苦手しかないこのイベントに参加しようとしたのはなぜか
とゲーム中に聞いてみました。
答えは
ボウリングは好きだし暇だから
でした。
これが勉強会とかサッカー大会とかだと
無理らしいです。
一昨日、妹が兄に
苦手なこと何?
と聞いていて
上の子は
大人数の場所、慣れていない人と話すこと、字を書くことと答えていました。
下の子は
私は座っているのが苦手、立っているのも苦手だけど
と話していました。
自分の得意な事もしっかり話していました。
私が自分を知るって
とても大事な事だよね
と話すと
上の子が
そうそう
自分を知っていたら
自分に合う仕事が見つけられそうだよね、
と言っていて
この不登校中、生きていく上で一番大切な事を学んでいるのかな、と思いました。
いつも先生のブログを楽しみにしています。
我が家は兄妹で不登校です。
上の子(ASD.ADHD)が不登校になって1年半、下の子は(ASD)は不登校になって半年になります。
この1年雑談ばかりの日々を過ごし
ここ2ヶ月は一緒にゲームにハマり
ゲーム三昧の楽しい夏休みを過ごしています。
その中でどんどん行動が外へ向いてきています。
以前は家族と外へいって
すごく納得です。
4月から中学生になった息子(ADHD,LD,ASD)は、授業に参加するようになりました。
板書をし、提出物を出し、先生の話を聞き、時間割り通りに次の教科の準備をする…。
ごくごく当たり前のことですが、小学校時代は全くできていませんでした。
P先生のおっしゃるように、好きか嫌いか・やりたいかやりたくないかだけで生きていた小学校時代のような気がします。
それが成長とともに他の判断基準も感じられるようになり、少しずつ変化していって今回の中学入学という刺激もいい方向に作用したのかな、と思います。
ただ成長と一言で言っても、とても長い道のりだったし、学校の先生方・友達・家族・習い事などなどた~くさんの人たちを台風のように巻き込みながら支えてもらってたどり着いた『成長』です。
(もちろん、本人のがんばりが1番あると思いますが)
みんなが小1の一学期くらいでなんとなーく習得できることが、6年かかったと思うと白目になりそうですが(笑)、『やりたくないけどしょうがない、しぶしぶだけどやるか』という思考回路を習得できたのはとても大きいと思います。
好きか嫌いかは、自分の気持ちとしていったん受け入れて、そのあとどうするか?を考えられるようになれるといいなぁ。
P先生、コメント取り上げていただいてありがとうございます。
ADHDタイプにありがちな頻回の視点の移動って、有用なら目配り気配り、有害なら目移りやよそ見ってことになりますものね。すぐそばに確かにある、それが嫌だと言う自分の気持ちに意識を向けない様にするって難しい(わがままじゃなくても、タイプの違う人にはわがままに見える事はあると思います)。全面的に嫌なものはやっぱり無理。
ただ、頻回の視点の移動にはやっぱり長所もある。それによるメリット(誰かに喜んでもらえるとか、気持ちを共有できる相手があるとかも含めて)があるなら、そちらに目を向けながらする事もできる。人間の心は天秤なので。片方に載せる嫌な事は変えられなくても、片方に載せる嬉しい事を少しでも多くしておく事はできる。色んな仲間ができて、その仲間に対して恥ずかしくない自分でいたいという思いがモチベーションになる事もあると思います。もちろん、仲間がいなくてはダメという事ではないです。「カッコいい自分」を評価するのは自分だけで十分なので(ローランド様?)。
嫌だ、怖いと思う気持ち自体は、何度も思い出してしまうけれど。