昨日の続き。
この話、否定的な反応が返ってくるだろうことは想定内だった。
決めつけないで!
外来でも、ブログほどはっきりとは言わないけど、同様の話をやんわり伝えることがある。
「こういう子なんです。ムリに練習させる必要はないと思います。」
すると、だいたい上記の反応。
子供の欠点が受け入れられないのだ。
それは分かる。
気持ちはわかるんだけど。
子供は成長する。
可能性の塊だ。
子供の素晴らしい点は、成長すること。
発達していくこと。
可能性が無限にあること。
僕は小児科医で、子供が好きだ。
平均的な日本人より子供が好きだと思うし、平均的な日本人より子供の可能性を信じていると思う。
子供が成長すること、そしてその素晴らしさは割と分かっている方だと思う。
その上で思うこと。
成長するって、できることが増えること、なんだけど。
出来ないことを理解することも同じくらい大事なんじゃないだろうか。
子供が子供たる所以。
まだ成長しきっていないこと。
未発達なところ。
可能性が絞り込めていないこと。
そして、「無限の可能性があること」と「未熟で未発達であること」って、同じ事柄のオモテとウラを表現しているんじゃなかろうか。
子供は成長する。
成長って一般的に、大きくなる、能力が上がる、今まで出来なかったことができるようになる、そんなプラスのイメージの言葉だと思う。
もちろんそうだ。
小さい子なんか、次々と能力を獲得していく姿に目を見張る。
そう、なんだけど。
成長ってできることが増えるのと同時に、出来ないことを増やしていく作業でもあると僕は思っている。
何かを選ぶ時は、それ以外のことを切り捨てる必要がある。
何かを得れば、何かを失う。
それが世の中の道理。
「これはできるんだけど、相対的にこれは苦手だな。
じゃあ得意なことをがんばろう。」
そうやって自分を理解していくこと。
自分の能力と、自己認識を適合させる作業。
それを『成長』と呼ぶのだと僕は思う。
『獲得』ばかり重要視され、『諦め』が軽視されすぎていると感じる。
でも諦めて切り捨てていかないと、大人になれない。
大人になると、現実が見えてくる。
自分は何者にでもなれるわけじゃないと理解する。
「根拠はないけど自分は無敵」みたいな万能感って、まだ大人になりきれない若者特有のものだと思う。
それも素敵だけど、ずっとそのままではちょっと生きづらいだろう。
前回、「ムリなものはムリ」と書いた。
あえて強い表現をしたのには理由がある。
「これができて普通、できないあなたは普通以下」という線をひかないでほしいのだ。
以前、自己肯定感の話を書いた。
親の視線、「これが出来て当たり前」という期待を、子供は敏感に感じとる。
そして、親御さんの期待に答えようと頑張ってしまう。
毎回ハードルをクリアできればいい。
でも、そうはいかないのが現実。
高くそびえる「普通ライン」。
そのラインに届かない自分。
自己肯定感、ダダ下がりだ。
これを回避してほしいのだ。
だから、「あなたはこれは出来ないね、能力がないね」と突き放せってことじゃない。
「出来なくても関係ない、あなたはそのままで価値があるよ」と思わせてあげてほしい。
自己肯定感を下げないで欲しいのだ。
目先のできる・できないなんてちっぽけなこと。
それより自己肯定感を高めてあげることの方が、何百倍、何千倍も重要だと僕は思う。
他人と比較するって、マジで意味がないと思う。
「〇〇ちゃんは上手にできるのに」
「いとこのお兄ちゃんは〇〇高校に合格したって」
こんな言葉、マジでなんのメリットもない。
だってそうでしょう?
大人だって、
「お姉ちゃんのところは3人目が生まれたのに、あなたは一人っ子なの?」
「同期の山田くんは課長になったのに、あなたはヒラなのね」
「主婦たるもの、毎日掃除機をかけ、栄養バランスのとれた手作りの食事を提供すべし!」
とか言われたら、あまりにもでっかいお世話すぎてヤバくない?
一人っ子にはその家庭の考えや事情があるだろうし、出世したくても出来ない人もいるし、家事へのエネルギー配分なんて人によるとしか言いようがない。
こんなことを言われたら、即黙らせますよね?
口にホカホカの肉まんを詰めて黙らせますよね?
大人はそうでしょう?
できること、できないことを理解して、できることの中から最善の方法を選ぼうとする。
それは、自分の能力を把握しているからだ。
自分に無限の可能性があるわけじゃないと、十分理解しているから。
じゃあ子供も同じ。
他人と比較しても意味がない。
それより、1年前のその子と比較してあげてほしい。
子供はどんどん成長する。
これは大人と違う、子供の素晴らしい点だ。
過去のその子と比べる。
結果じゃなく、過程(がんばり、姿勢など)を褒める。
褒める点がなかったら(まったく努力せず案の定結果が出ないとか)、「ふーん、ま、そりゃそうでしょう。別に出来なくてもいいんじゃない?」でいいと思う。
子供の人生だ。
どこにエネルギーを割き、何を頑張るかは、本人が決める。
親が先回りして、「あとで困らないように」「せめて普通にできるように」とかしないであげてほしい。
できないならできないで、まずはそのまま受け入れてあげてほしい。
子供はみんな、親が大好きだ。
親の期待に応えようとがんばってしまう。
これを繰り返すと、いざ結果が出なかったとき、受け入れられない。
できなかった自分も、やらせた親も受けれられない。
「こうなったのはお母さんのせいだ!」と親のせいにする。
キング・オブ・こじれ家庭だ。
子供の人生を、子供に返してほしい。
子供は親の通知表じゃない。
子供と親は、別の人格で、別の人生を歩む。
転ばぬ先の杖をやめてほしい。
良いことも悪いことも、自分で選んで自分で経験させてあげてほしい。
親の不安と子の不安、分けて考えてください。
結局、全ての出発点はここだと思う。
その子をありのまま受け入れてください。
これがないと、その後様々な問題が派生する。
走るのが遅くても、勉強ができなくても、ワケわからん主張をしても、親と全く違った価値観を持っていても、発達障害があっても。
とにかく、「そういう子」です。
まずはそれを受け入れてあげてください。
その子が持っているカードを正確に把握してください。
じゃあどうするか、次の作戦を練るためにも、この土台がしっかりしていないと話にならないと思う。
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とっても為になって、だけどとっても耳の痛いお話しでした。
「その子のありのままを受け入れる」
先生のブログを、Ameba創世記から読んでいる身としては、ずっと先生のブログのなかで伝えてくれているメッセージなので、うんうん、と読み進めてはいましたが、果たして本当にありのままを受け入れられているか?未だに課題でもあります。
娘が不登校になる前も、ありのままを受け入れているつもりでした。でも、そこには自分でも気づかない、条件付きの、だったと思います。
「あなたの好きなように生きなさい。ただし、学校は普通行くでしょ」
「ありのままのあなたを愛してる。ただし、人並みに勉強はしようよ」
みたいな。私だって、ほかの子だってやってるんだから、あなたもやるのは当たり前、と考えていました。
不登校という課題に直面して、子供と死ぬことも考えるくらい追い詰められて初めて、自分の凝り固まった価値観を見直すことができたように思います。価値観を変えるって、私にとってはそのくらい、苦しいことでした。
でも、人並みにはやらなきゃ、っていう呪縛の外に出ると、娘だけでなく自分もちょっと楽になったことにも気づきました。
自分自身をありのまま受け入れる、っていうことがわかり初めてから、ようやく娘のありのままも受け入れることができるようになったのかもしれません。
先生のブログには、毎回気づきをもらえます。