文部科学省が2022年度、全国の国公私立学校を対象に実施した「問題行動・不登校調査」で、病気や経済的理由などとは異なる要因により30日以上登校せず「不登校」と判断された小中学生が前年度比22・1%(5万4108人)増の29万9048人となり、過去最多を更新したことが判明した。
(10/3のニュース)
Oh……
モーレツ!
もうさー。
不登校、もうよくね?
これさ、もう、少数派じゃなくない?
一大勢力じゃん。
30万人ってどのくらい?
えーと、小中学生の総数が、小学生630万人、中学生が320万人らしい(2020年)から……。
30万÷(630万+320万)×100で、ざっくり3.1%か。
日本人における、静岡県民の割合と同じくらい。
静岡県民、別に珍しくなくね?
結構いるよね?
うなぎパイ、おいしいよね?
実際に不登校してる子で3%だ。
予備軍も含めると、めっちゃいると思われる。
なんとかかんとか通ってる子ね。
東京都民(10%)くらい、いや、高齢者人口(29%)くらいいたりして⁉︎
なぜこんなに増えたのだろう。
僕は、以前からよく考える。
多分、「不登校という選択肢ができた」からが大きいんじゃないかと個人的には思っているんだけど。
多様性! 的な。
学校は「行く」一択じゃないぜ! 的な空気。
逆に考えてみる。
逆に、昔はなぜ不登校が少なかったのか。
ここまで増えた不登校。
静岡県民レベルの頻度の不登校。
35人クラスに1人いる計算になる不登校。
「学校が合わない子」は、おそらく昔から同程度いたと思うんだけど。
しかも、昔(昭和後半を想定している)って
体罰当たり前!
根性論ゴリ押し!
の時代だ。(でしょ?)
連帯責任とか。
給食は吐いても完食とかさー。
モラハラセクハラパワハラ上等!
でしょ? 思い込み?
そっちの方がキツくね? って、純粋に思うんだけども。
昔は、なぜみんな学校に行けたのか。
「選択肢がなかったから」以外にも理由があるのか。
行けた理由が、可逆性のあるものなら、今の子たちにも応用できるだろうし。
不可逆的なものなら、もう学校自体の方向性を切り替えるしかないと、個人的には思う。
例えば、
選択肢がなかった
は、不可逆的な理由だ。
今は、「不登校」という選択肢を知ってしまった。
文科省がはっきりと不登校を許容している。
(H28 義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律の公布)
もう、知らない時代には戻れない。
ネットやスマホの普及
も、不可逆だ。
もう、ない時代には戻れない。
中卒での就職
は、可逆的だろうか。
その選択肢を作れば、不登校は減るかもしれない。
寛容な環境
は、可逆だろう。
適応指導教室や通級指導など、年々規模が広がっている。
ヤンキー文化
は、どうだろう。
居場所がない子の居場所を不良文化に求めるのは、この時代に可能なのだろうか。
家庭環境
は、関係あるのだろうか。
今と昔で、どちらが安定していたのだろう。
そして、直接的に不登校の原因となり得るのだろうか。
発達障害
は、どうだろう。
本当に、昔の方が少なかったのか。
色々考えるんだけど、僕の脳では限界がある。
「昔はこんな理由で学校に行ってたぜ」ってのがあれば、ぜひ教えてください。
特に、昭和後期の経験のある方。
いうても僕は平成育ちで。
すでに先生は絶対的な存在じゃなかったし、不登校も普通にいて。(今ほどじゃないにしても)
ゆとり教育に片足突っ込んでる世代なので、体感的にはわからない。
僕の昭和のイメージ。
体育教師が竹刀持ってうろついて、職員室はタバコの煙でモクモク。
ヤンキーがボンタン履いてスカート長くて、窓ガラスは尾崎に壊されて……。(ホント?)
でも実際こんな環境だったら、僕なら一目散に逃げ出しそう。
なのに、不登校は少なかった。
なぜ?
実際のところどうなのでしょうか。
知ってる方、教えろください!
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団塊ジュニアど真ん中、東北の田舎育ちです!
そうそう、不登校ではなく登校拒否と呼ばれてました。
とにかく人数が多い世代なので、何事も十把一絡げといいますか、子供は子供!学校は通うもの!という感じで、個人個人が違う、人と違うことを選択するという概念はなかった気がします。
ケツバットも連帯責任の正座も当たり前にありましたねえ…(遠い目)
今は先生も子供をさん付けして尊重しますが、男子は君、女子はちゃん、呼び捨ても普通でした。
一方で、今の中学生より明らかにタスクの量(学習、提出物など)は少なかったです。LINEもYouTubeもないので、あらゆる意味で情報量と刺激がいまより段違いで少なかったと思います。
ちなみにですが、そんな昭和後半から平成にかけて、不登校の子が自由に参加できる今で言う適応指導教室の走りのようなクラスを我が父が作ったのですが(教育長でした)、あくまで当日父が接した範囲としては、保護者の方の過干渉や教育虐待、ネグレクトのような明らかに家庭環境に要因がありそうなケースが多かったそうです。
なので、今の「原因がわからないけど行けない、しんどい」という子は、その頃は声をあげられなかったのではと推察しています。
今は中1の娘が不登校で、HSCの完璧主義のため、「友達も先生も授業も好き、だけど行けない」という状況です。亡き父がよく言っていた、「親は向こうを見るふりをして、そっと横にいるくらいがいい」という言葉を思い出しながら、P先生のブログを読みながら、なんとかかんとかやってます。
「もはや一大勢力」「静岡県民珍しくない」に気持ちが軽くなりました。
P先生、いつもありがとうございます!
不登校女児の母です。昭和40年代生まれです。
(1) 社会に求められる人物像が変わった
(2) 教員のなり手がいない
(3) 学びの手段の多様化
要因は本当に様々あると思いますが、上記のような点は大きいと考えています。
(1) 社会に求められる人物像が変わった
■先生の言うことをよく聞いて、その通りにする。忍耐強く、つらいことでも我慢する。というスキル。先生がすべての正解を知っているという考え方。
■自分で創造力を働かせる。自分の考えを自由に述べる。空気を読みすぎない。というスキル。好奇心を持ち続けること。自分や仲間で正解を見つけていくという考え方。
違うと思えば先生や目上の人間にも意見できる力。
前者より後者のニーズが社会的に高まっていると思うけれども、後者のスキルは学校教育の中でともすると失われることがあると感じています。学校教育はまだまだ
前者の考え方に基づいてなされています。
自分自身は娘に対して、最終的には学校には戻ってほしいのですが、ほかの学びの手段も併用して、子供が生き生きと学べる環境を模索したい。後者のスキルも磨いてほしい。少し寄り道してもかまわない。と思っています。
(2) 教員のなり手がいない
Youtubeで見た情報ですが、教員というお仕事の大変さが世の中に広く知られるようになり、今、本当に教員のなり手がいないと。
都心部では、全てのクラスに担任の教員を確保することが簡単ではなく、毎年ギリギリであるという話を聞きます。採用倍率も2倍代で、採用時に十分な選考をするだけの応募者がいないということが起きているそうです。先生ご本人の責任では全くないのですが、やはり、十分な応募者の中から先生を採用できていた時代に比べて、必ずしもその職業への適性が高くないという先生も多くなっているのではないかと思います。
(3) 学びの手段の多様化
読み書き算術といった基本的なスキルは、学校で集団授業を受けずとも、タブレット学習やゲームを利用するなど、楽しく身に着ける代替手段が多くある時代となりました。先生のブログでも、「小学校6年間の学習内容はその気になれば一年で身につく」という説が紹介されていましたが、子供の不登校を経てですが、「学校はいろいろある利用可能なリソースのうちの一つである」ぐらいに考えておけばいいか、と思うようになりました。
子供の不登校は本当につらくて、登校してくれた方がどんなに楽か・・・。とは思うのですが、葛藤をへて、自分としては、合わない先生であれば無理をしなくてもいい。と思うようになりました。時代背景もあり、同様にお考えのご家庭ももしかしたらあるのかもしれません。
私も追記させてください。
特に80年代の高校はのんびりしてました。進学校のはしくれでしたけれども、テストが終わったらテスト休みがあり、部活に専念できました。そういう意味で長期休みも長かったし、部活も強制ではなかったので、人によっては辞めたり、転部したりも全然OKでした。また、合唱コンクールみたいな、やっきになって競わせるイベントも高校はなかったのでは。
子どもの学校では、学習内容の高度化、多い課題、頻繁なテスト、広いテスト範囲、短い夏休み、夏休みの中講習、部活は強制、転部を認めない、合唱コンクールに体育祭など、一見充実してるんですが、まじめな子どもがバーンアウトしやすいところがあります。子どもの学校は中高一貫進学校だったので、子どもたちの学力も高くしかもその中でスクールカーストつくっちゃう生きぐるしさ(同質性が高いゆえ)、もあるかもしれません。
中学2年の不登校の娘を持つ母です。
昭和47年生まれです。中学校、荒れてましたが小学校時代はのんびりしてました。
宿題なんてほとんどなかったし、給食の時は毎日班の子とトランプしたり集めたビー玉見せ合ったり、、、
なのに子どもが小学校に入学したら、毎日宿題出されてびっくりしました。おまけに持ち物にキャラクターがついてる物は使用禁止、カードなど勉強に関係のないものは持ち込み禁止。
これは息苦しいと思いました。
昔は授業も一方的に話す先生が多かったので、つまらない授業はボーっと受けたりできましたが
今はアクティブラーニング?というのか発言したり意見交換の授業も多く、とにかくレベルの高い内容が多くなったと感じています。
子どもが持ってくる内容も私の時代より難易度が高く、特に数学はできる子とできない子の差がかなり広がってしまいました。
良く言えば昔は求められる内容がそこまでではなかったので子どもたちの差がそんなに分からなかった。今は大多数であろう中間層の子たちが必死に頑張らないとついていけないレベル。そのストレスは相当なものであろうと思います。
全員を向上させよう、という義務教育の熱心さが
学校の余裕をなくし余白のない学校生活を生み出してる気がします。
やる事多すぎて給食の時間削られるし。
ボーっとしたり、落ちこぼれる自由は大事なのではと思います。
今なら思います。昭和の学校の方がもっとほっとかれて良かったです!
アラフィフ、50オーバーです。
学校の環境についてはみなさん書いておられる通りだと思います。私の通った関西の郊外の小学校ではお酒飲んで授業に遅れてくる先生もいたりして、今の方がずっと先生たちはきちっとされていると思います。中学校ではギャング集団がいて先生に反抗したり窓ガラス割ったり、先生にケツバットされたり、というところは同じです。不登校は不登校かどうかはわかりませんが高校の時に一人留年がいたぐらいです。
違うのは、地域や家庭かと思います。私が子どもの頃、70年代頃も今と同じでほぼ核家族でしたが、当時は子どもが多くて、子ども会も成り立ちましたし、地域での縦横斜めのつながりがまだありました。加えて2人親家庭ではお母さんはほぼ専業主婦という世代なので付き合いも比較的密だったと思います。私が子どもの頃隣のお家へ預けられたり、祖父母は一緒に住んでいなくても泊りにいったりと頻繁な行き来があり、子どもはかなり甘えさせてもらう環境もありました。当時は母も割と教育熱心で宿題のチェックなどはしていましたが、中学受験なんてものもまわりで聞いたことがなく、あまり、そちらに熱心に親が走るということもなかったので、、、、子どものスケジュールもゆるめ。
弟はわたしよりは今でいうHSCっぽい特徴があるタイプでしたが、地域で野球チームがあって弟はそこでかなり鍛えられたようでした。
総じて親だけが子育てしなくてもよさげな環境。親が子育てすることで孤独にならない環境があったのではないでしょうか。子どもからすれば、まあまあ自由にやれる環境、普通に小学校終わったら、かばんおいて遊びに行って。地域の中学校行って、みたいな。もちろん一人親の子どもやしょうがいのある子どももいたけれども多様性はあんまり表に出ないかんじで、学校に行くのが当たり前、親の方もクレーム言うことも少なく。中学校にあがるとか高校受験して高校行くみたいな通常のことが通過儀礼として機能してある程度子どももふるいにかけられつつ成長というかならされていく、ということが有効だったように思います。
50代、昭和真っ只中の小中学時代を過ごした主婦です。
中学時代は、竹刀や三角定規を持った先生がいました。中庭でヤンキーに先生が取り囲まれるとか、卒業式に警察が来るとか…まぁかなりヤンチャな学校でしたが、不思議と不登校の子はいなかったと思います。
ヤンキーだって、何故か学校には毎日来てたし。
確かに不登校という選択肢がなかったというのもありますす。
しかし、先生は厳しかったですが、今より色々なタイプの子に寛容だったんではないかと思います。
それに、先生絶対主義だった故に先生対生徒という境がしっかりあったので、クラスで変わって子がいても割とみんなそれなりに過ごしていましたよ。
今の時代は、先生も強く出られずアクティブラーニングの導入により、先生に都合の良い出来の良い子を中心にクラス作り…。
良くも悪くも先生と生徒の境が無いので、先生➕大多数派の中に入れない少数派は、かなり息苦しさを感じるのでは無いかと思います。
P先生
ホットなお題、ありがとうございます。
昭和48年生まれ、15の夜で過ごした中学生時代でした!
振り返ると、小学校時代は放課後は教室に残り、トランプ遊びをする事もあれば、外遊びや基地作りなど、体と心を使って真っ直ぐ遊べました。
初期のファミコンも友達とで一緒にテレビの前で遊び、同じテレビの内容で盛り上がり、、、等等
そして中学生・思春期に入り、仲間外れを経験したり乗り越えたり友情を深めたり、しんどいながらも取り組みつづけたら、この支配からの卒業で、中学思春期を終え、楽しい初恋の高校時代へ突入しました♪
当時は、雑に体当たりで暮らせたのかな。。私の親は、子供に寄り添い系ではなかったので、家よりも友達と過ごす方が楽しかったですし。
その時代、時代の課題があるのかな?
今の子供たちは、とても忙しそうに見えますね、習い事などで。
どんな環境が、子供達の心を豊かにできるのでしょうか。いつも手探りです。
学校に行かないっていう選択肢が頭になかった。
熱が出て学校休んでも、することがないので家にいてもつまらなかった。
先生も何にも縛られずのびのびと指導していた。算数の授業中に、先生が急にオルガンを引き出し、音楽の授業に変わるなんてことも。教科の学習以外でワクワクする取り組みを色々してくれました。
35年以上たった今でも残る小学校の楽しかった思い出。
アラフィフ静岡県民です。
先月から不登校中の小5息子は学校行ってた頃よりもずっと元気にのびのび過ごしています。
私が中学生当時、学年(200人くらい)でひとりだけ不登校気味の生徒がいました。
中3の頃、その子と同じクラスでしたが、担任の先生が毎朝家に迎えに行っていて週に1日か2日来ていた覚えがあります。
他にも近所に不登校気味の後輩(中1)がいましたが、親が毎朝子どもを無理やり車に押し込んで学校に送っていたと母から聞いたことがあります。その子は毎朝学校に行きたくないと騒いで抵抗していて気の毒だったそうです。
不登校は登校拒否と言われて、許されないことであり、クラスで一言も喋らない男の子も休まずきていました。
登校しない選択肢がないなかで無理して学校に行っていた子はいっぱいいたんだろうと思います。
子どもがたくさんいた団塊ジュニア世代なので、当時は今みたいに子どもの休む権利(?)が認められておらず、学校=絶対行くべき、でしたね。
今思えば大人(親や先生)の言う事が絶対で子どもが尊重されていない時代でした。
昭和42年生まれ。アラ環です。
昔のほうが学校に行ってた理由とは関係ないかも知れないけど、
「不登校」って、ちょっと前まで「登校拒否」って呼ばれてましたよね。
なんか、「不登校」のほうが、軽く聞こえる、というか、市民権得た感じ。
そのうち、「ホームスクール選択生」とか、もっと積極的なイメージの呼び名に変わっていくかもね。
確かに、昔の方が、先生の体罰酷かったけど、学校休む選択は思いつかなかったな。
学校で、みんな先生に当たられてたから、かえって結束力あったのかな。
先生にビンタ張られたり、イヤミ言われて不本意だと思っても、親に言いつけたところでまた自分が叱られるから、友達と愚痴言いながら、翌朝も学校に向かってましたね。
ただ、何人か同じパターンで思いつくのは、小学校時代、何かの不適応?で朝頭痛いとか、お腹痛いとかで学校休みがちだった子が、
中学で不良仲間に出会った途端、元気になるケース。
学校来ても学級崩壊させて勉強はしてなかった彼らを思い出すと、今の不登校の子たちと、どちらがどうなのか?、、、なんとも、分析できません。