診察に、成績やテストを持ってくる人が結構いる。
学業的な相談を受ける機会って案外多い。
授業を全く聞いていないようです。
勉強の相談に関して、基本的に病院でできることってあまりない。
ある程度の方向性(LDがあるとかないとか、視覚優位とか聴覚優位とか、興味の偏りがどうとか)は言えるけど、具体的なところは学校や塾でおなしゃす! 以上! ではあるんだけど。
親御さんおよび本人にとっては切実な悩みであり、相談を受ける機会は多い。
でね。
ADHDタイプの子の相談が、なんか立て続いて。
おおぅ。
ADHDだな。
ザ⭐︎ADHDだ。
「やらないADHD」であるな。
ADHDだ。
そういう脳なのだ。
なんだけど、これでは困るわけで。
社会的な最低限のルールってもんがあってだね。
やらないにしても、超えちゃいけないラインがある。
親御さんは心配になる。
ガミガミ言うんだけど、まぁ、それで聞くADHDではない。
これまで口酸っぱく言い続け、でも一向に響かないのは親御さんも承知。
普段は諦め半分なんだけど、目の前にテストの答案を出されたり、先生から直接言われちゃったりすると、不安が再燃。
もう、マジ、どうしたら⁉︎
という相談が、僕のところに来るようだ。
これね。
もうね。
ムリです。
お察しの通り。
いくら言って聞かせても、ムリなんです。
これだけ言ったんだから、少しは危機感を持つなり、行動を是正するなりあると思うじゃん?
短期間でも、渋々でも、ちょっとはやると思うじゃない?
ないんだな、それが。
ムリです。
ムリ。
圧倒的ムリ。
だってさー。
僕、一応子ども本人に聞くんだけどさー。
全然困らないよっ。
ですよねー。
そう言うと思った。
成績が下がろうが、自分の提出物だけなかろうが、全く気にならないと。
本人が困っていないのだから、行動は変わらない。
この手の困りごとを解決するのは、まずムリだ。
やってみせ、
言って聞かせて、
させてみせ、
ほめてやっても、
ヤツは動かじ。
そういうことだ。
あ、あんまり怒るとさらに暑いっすよ?
涼んで涼んで。
やる気スイッチは、本人にしか押せない。
ドアノブは内側にしかないのである。
「やらないADHD」は、自分で「やるADHD」に進化するしかない。
外野が進化の石を与えても、ダメなのである。
パチモン、ゲットだぜ! (それ詐欺にあってるー!)
どのタイミングでどう進化するかは、人によるけど。
いつかは「このままじゃアカン」と思って進化する時が、来ると思いたいけど来ない人もいるし。
その人の人生だ。
何を感じどう選ぶかは、その人のもの。
「本人待ち」だ。
それしかできない。
いつか進化することを願って。
周囲にできることって、進化の邪魔をしないことだけだなーと思う。
できるのは、邪魔せず、やんわりと、「アンタそーゆーとこあるから気ィつけーや」と教えることくらい。
忠告を聞くか聞かないかは、本人次第。
そして、多分聞かない。(今はね。数年後に突然理解する可能性は全然ある。)
具体的には。
このADHDのパターンだと、10歳前後(プレ思春期)で「まったくやりません!」という相談を受けることが多いんだけど。
この時点での対応で、思春期の行動が分かれるように思う。
ガミガミ叱られすぎて自信をなくすと、「どーせ俺(私)なんか」と拗ねる。
すると、意地でも動かない。
「やらない自分」にこだわるというか。
反抗、反発、破壊。
衝動が自分に向く人と外に向く人と諦める人とがいて、実際どう動くかはそこに左右される。
二次障害ってやつだ。
かたや、そういった傷つき体験がない場合。
ADHDの持ち味であるフットワークの軽さを生かして、結構動く。
好きなことや目標を見つけたり。
なんか急に思い立ったり。
「友達がやってるから」という理由で、ポーンと動き出すADHDも多い。
そんな軽い理由で⁉︎
いままであれだけ言ったのに全く響かず、なんで今⁉︎
ってなることが、結構ある。
親なり周囲の人に、できることとできないことがあるなぁと、しみじみ思う。
そして、できないこと、すごく多い。
例えば、完璧主義のHSCの高すぎる壁を崩すこと。
「そんなに気にしなくてもいいよ」
「誰も見てないよ」
なんていっても、まず響かない。
本人が自分で掴むしかない。
例えば、頑張りすぎる子の頑張りを止めること。
いっぱいいっぱいなのに、さらにタスクを増やす。
周囲は明らかにキャパオーバーであることを伝え、でも実際ブレーキを踏むのは本人だ。
例えば、不登校の回復過程。
暗黒期を抜けて、エネルギー30%の壁を突破したあとの社会復帰。
家族以外の誰かにひっぱり上げてもらうしかなくて、でもその「誰か」を見つけるのは自分しかなくて。
できないんだよ。
ムリなんだ。
その人の人生であり、その人が越えるべき課題だ。
誰かが横取りすることはできない。
代わりに味わうこともできない。
本人が乗り越えて、味わうのだ。
一般的に、誰かの支援って、その人が持っている力を発揮させるお手伝いなのだと思う。
持っていないものを無理やり付与することはできない。
時期じゃないのに花を咲かせることもできない。
本来持っているものを信じて、邪魔しないこと。
自己理解のお手伝いをすること。
ロールモデルを提示すること。
支援者にできるのは、これだけ。
でも、この「周囲がそういう目で見ている」って、本人にとって大きなプラスになると思うのだ。
加えて、親御さんだからできるのが、失敗したら骨を拾うこと。
これ、めちゃくちゃ大事で、親御さん(および近しい人)にしかできないことだと思う。
『課題の分離』という。
周囲にできることをやったら、あとは本人の課題だ。
手出しできないし、するべきではない。
冷たいようにも感じる。
でもさ。
きっとその子には、生きる力があるから。
心の奥底で強固に守られた、生きる力が。
全員を救うことなど、もちろんできない。
みんなが成功するなんて、ありえない。
失敗する人、ずっと動かない人、不幸に突き進む人だって、きっといる。
これが現実だ。
その上で周囲にできるのは、本人の力を信じることなんだろうなーと思う。
目の前のこの子の生きる力を信じて、本人に託すことだと、僕は思っている。
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>全員を救うことなど、もちろんできない。
みんなが成功するなんて、ありえない。
綺麗事ではなく、現場から見ている真実ですよね。やはりこのP先生は信用できると思いました(上から目線すみません)。
不登校4年目になりましたが、その間周りが何をしようが彼は動きませんでした。むしろ本人「頑張って校門にタッチしに行ってたの、アレって無駄だったな」との感想です。くそー。
月に1回程度、訪問看護という名目で作業療法士の男性が来てくださっているのですが、その方にどうしてリハビリなどではなく不登校支援のような特殊な仕事に就いたか尋ねてみたら、「子どもには未来があるから。」だそうで、本当にありがたく思っています。その方によると、多くの不登校児を見る中で、キングオブこじれ家庭(親に対して「こうなったのはお前のせいだ!!と暴れる」ケースがあるそうで、そうなるのは親が子を手放せず、いつまでも干渉を続ける家庭が多いそうです。
手がかかる子だからこそ、小さな頃から心配して手をかけてきたお母さん達。私もそうです。でもそこをぐっとこらえて手を離していかなければならないんですね。この子の力を信じること。邪魔はせずロールモデルを示すこと。 肝に銘じます。いつもありがとうございます。
骨拾いはする。いろいろ走り回って、結局、親にできることなんてないんのかもって思った。でも、何かしたくなるんだよね、お母さん。大好きだから、笑顔見たいんだよね。
前回、今回と心に沁みる記事でした。今回の記事の、花に水を上げてるイラストすごくいいですね^_^
今、絶賛「本人待ち」中です。本人が持ってる生きていく力、成長を信じる。その間に、親である自分も成長したいなと思いました。まずは子供の話を最後まで聞ききれる親になることが目標です。あとは、完璧を目指さない。自分のこれまでの価値観をアップデートする。今この瞬間、この一日を楽しむ。睡眠時間増やす。やることいっぱいあるなー。笑
いろいろな不登校関連書籍を読むと、不安で振り回されてしまいそうな瞬間があるのですが、そんなときP先生のブログを読むと、すーーっと深呼吸することができます。いつも本当にありがとうございます。
失敗したら、骨を拾うしか出来ない、って本当にそれで、いくら学校側からやらせて下さいや、これやれてないんですと言われても、親がやるのではなくて、本人しか出来ないんですよね。学年が上がるほどにそう感じます。