先日、センセーショナルなネット記事を目にした。
『学校が発達障害を作る』といったようなタイトルだった。
ここ20年ほどで、発達障害の児童・生徒は急増している。
そして学校から受診を勧められた例も少なくない、と。
トラブルがあったり、いわゆる「扱いにくい子」は早めに医療につなぐ風潮がある。
その結果、不要な診断がなされているのでは、という論旨だった。
つまり、不要な発達障害を学校が作り出しているのでは、と。
これ、ホントなのか。
発達障害を作っているのは、一体誰なのか。
学校を悪く言いたくはないのだが、「学校に言われて」という主訴で受診する子は、実際にいる。
場合によっては「学校から投薬を命じられて」という子も。
医療を飛び越え、学校が投薬適応を決めちゃうのかい。
こんなことも。
これだけ聞くとビックリしてしまうのだが、まぁ実際のところの真偽は不明。
親御さんからしか話を聞けないので。
学校側の意図と異なる解釈を、親御さんがしている可能性もある。
だから分かんないんだけどね。
これ以上は言及しないけど。
学校からお手紙の一つでもついていれば、実際のところがわかるんだけどねー。
ただ、「学校が受診(内服)するよう指示した」と親御さんが捉えている例は、確かに存在する。
これは事実。
医療にできることは、『検査』『診断』『投薬』の3つ。
なので学校でトラブルを起こす子が受診したら、なんらかの診断が付く可能性は高い。
受診した時点で、診断と強く結びついちゃうのね。
ネット記事は、これが過剰なのではという論旨だった。
実際に診断がついた子が、クラス替えなどで学校の環境が変わったら、途端になんの問題もなくなることがあるという。
安易に診断に結びつけず、つまり「発達障害」のレッテルを貼って教室から排除するんじゃなく、適応しやすい環境を作るのが筋では、と。
うん。
わかる。
発達障害は増えている。
その理由は、今までスルーされていた子が「そういう目」で見られるようになったからだと僕は考える。
そして、これは良いことだと思う。
根性論じゃなくて、生まれ持った特性を見る流れには、大いに賛成だ。
でね。
発達障害や、グレーや、いろんな子がいるって認識されるのは、すごく良い。
実際、いろんな子がいるよね。
そりゃもういろんな子が。
でも、「じゃあそういう子をどうするか」の体制が整っているとは言い難い。
だから、
ハイ診断しました。で、どうするの?
ってなるわけです。
僕は、診断しっぱなしが一番悪いと思っていて。
診断するならその先を見据えて。
と、思っている。
なんだけど、これには限界がある。
僕たちは病院の、診察室の、その瞬間しか見ていない。
ずっとその子を見て、その都度対応というのは、医療にはできない。
どんなシチュエーションでどんなふうに困るのか、つぶさに観察はできないわけだ。
親御さんや本人から話を聞くしかないのね。
だからその話が間違ってたら、診断もアドバイスも全部間違えるわけ。
そして患者さんが的確に、かつ客観的に、自分(お子さん)の問題点を把握できるかというと、相当難しいだろう。
誰だって自分のことはよく分かんないよね。
だから、僕個人的には診断には慎重なスタンス。
だけど、受診したからには積極的に診断するという先生の意見も至極真っ当だし、よくわかる。
誰が発達障害を作るのか。
その子が典型的な発達障害で、かつ多くの困りごとを抱えている場合。
これは積極的に診断するべきだろう。
でも、典型的というほどではなく、困りごともさほど大きくない場合。
これは、診断すべきか?
不要な発達障害を作っているのは、学校?
いや、病院じゃないのか?
それとも、受診を決めた親?
わからないんだよ。
正解はないんだ。
診断する立場として、いつも自問している。
僕は、不要な発達障害を「作って」はいないだろうか。
でも、じゃあってんで発達障害を診断しなければいいかというと、それも違う。
診断しなければ、その子の特性はなくなるのか?
そんなわけはなくて。
その子には特性があり、大なり小なりトラブルを起こしているわけで。
診断というレッテルをしっかり貼る必要があるケースは、当たり前だけどたくさんある。
発達障害は、スペクトラム状の概念だ。
すごく濃い人もいれば、相当薄い人もいる。
同じ診断でも、例えば同じADHDでも、多動・衝動性が目立つ人と不注意メインの人とでは、対応はかなり違ってくるはずだし。
どんな子を診断するか。
どこまで診断するか。
すごく難しい。
正解はない。
誰にだって多かれ少なかれ特性があり、それに起因するトラブルを人生のどこかで経験する。
極論すると、全人類に発達障害の診断が付けられる可能性がある。
少なくとも僕は、今まで会った人みんな、ADHDタイプかASDタイプかその両方か、傾向を見つけられそうだ。
いつも思う。
普通ってなに?
普通(定型発達)ってなんだろう。
発達障害ってなんだろう。
そこに明確な線引きなどないのだ。
もちろん、どこかで線を引くしかない。
そして線引きする以上、必ず制度の狭間に落ちる人が出てくる。
過剰な診断をしてしまうこともあるし、必要な診断がなされないこともある。
僕らは常にそれを頭において診療に当たるしかないのだけれど。
目の前のこの子にとって、何を選ぶのがベストか。
いや、ベストなんて誰にもわからないから、ベターでよい。
どういう理由で、どんな目論見で、そっちの選択肢がベターと思われるのか。
考え続けるしかないのだと思う。
誰が発達障害を作るのか?
発達障害を作るのは、僕かもしれない。
過剰診断かもしれない。
必要な診断がなされていないかもしれない。
もしかしたら、最も避けるべき二次障害を僕が作ってしまうかもしれない。
この問題を常に頭に置きながら、目の前の子どもと向かい合うしかないのだ。
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発達障害=レッテル
となるから誰が作るのか?と言われてしまうのだろうと思います。
花粉症アレルギーの子ならアレルゲンの花粉に注意するし、食べ物アレルギーならその食べ物を口にしない。
診断がある事で注意して問題は回避出来る。
(または軽減出来る)
発達障害と診断することは、その子の注意するべき点を明確にするだけで、レッテルではないと思える社会があるべきなのだと思います。
悩んだ末、精神の手帳を取得しようという思いにいたり、診断書を依頼しました。
嘘は書けないけど、大袈裟に書くようにすると・・・。
明確な基準がないから、取得出来るように努める。
曖昧な世界なのかもしれません。
いつも拝読しております。
思春期になり特性が出始めた息子、グレーで何とか不登校もなく学校生活やっておりますたが、この度新学年を迎えるにあたり、「合理的配慮」を求めるべく、担任と話し合いの場を持つことになりました。
今回の先生のお話や、以前の「発達障害を診断するときに気をつけていること」のように、腫れ物扱いすることなく、どうすればこの子が伸び伸び過ごせるのか。それをお願いしながら、論を展開していこうと思っています。
P先生、いつも本当にありがとうございます。
こんな貴重なお話が、受診せずとも無料で聞ける(読める)ネット社会は、有難い限りです。
ネットが子供を駄目にしてると思ったりもするんですが、恩恵も計り知れないですよね(*^^*)
ずっと継続して下さいね。
いつも興味深いブログをありがとうございます。
毎回楽しみにしております。
4歳と1歳の子の母です。
上の子が1歳児のときにマンモス園に入ったのですが、園で半年話さなかったため、先生に「発達に問題があるんじゃないかと思っていた。問題のある子として見ていた。」と言われ衝撃を受けました。家ではよく喋る子で同年代の子よりも発語能力は高いと思っていました。
2歳児からは安全基地とアタッチメントの概念がある園に転園し、特に何も言われなくなりました。
下の子が生まれて、上の子の赤ちゃん返りが酷く(多分HSC)、下の子の運動発達も遅くて私もまいってしまい産後うつっぽくなりました。
下の子の運動発達が遅いため、このご時世オンラインでいろいろな勉強ができるので、小児整形外科医や小児理学療法士の人の勉強会にも参加しました。
上の子に体のぎこちなさを感じ、小児整形外科医に質問する機会があったため、「うちの子は発達性協調運動障害かもしれない。療育とかはどうかと考えている。」と問うたところ、「昔から不器用とか運動が苦手な子はいたわけで、それをかわいそうに思った人がそういう概念を作っただけ。その子が楽しければいいんじゃないですか?」とのお答えでした。
産後うつっぽくなり、カウンセリングに通い始めました。上の子や下の子の発達のこと、自分自身のことをお話しし、1年くらい通いました。1歳児の時に園の先生に自閉症かもしれないと言われ、今はHSCかもしれないと私は思っているとお話したところ、「日本人ってカテゴライズするのが好きですよね。ありのままのその子を認めてあげればいいんですよ。」と言われました。私の弟は小さい頃換気扇が好きな時期がありました。それを公認心理師さんに言うと、「今だと自閉症っていわれちゃうかもしれませんね。」と言われてはっとしました。あの時に変なレッテルを貼られてしまったら、今都内で経営コンサルティングの会社で働く弟はいないかもしれないなと思いました。
誰が発達障害を作るのかを考えたときに、私は時代と多数派が作っているのではないかと考えました。人間、誰しも個性、特性はあるはずで、その人個人のことを知って認めていけば発達障害という概念もなくなるのではないかと思いました。
先生、いつも楽しみにしております。
今回もとても興味深いお話です。
うちの子は3歳から多動衝動、そして癇癪があり発達障害の診断でした。当時はアスペルガーと言われました。
私の場合は、周りが「発達障害っていうけど、みんなそんなもんだよ。男の子だし元気なのが当たり前なんだから、そんな大袈裟に言わなくたっていいんじゃない?」
という反応の方が多かったです。
こう言われると、私が気にしすぎなのか、育て方の問題なのか、と悩みながらの子育てを続けていたら、今は立派な不登校です。薬が必要なほどの不安障害を発症しました。
恐ろしーい、二次障害です。
でもやっと子どもと向き合えた気がします。雑音は耳に入れず、この子の特性と上手に付き合えそうです。そして本人が特性を理解しつつあるので、良い子産んだな、って嬉しく思っているところです。
発達障害の子育ても大変ですが、多分私が発達障害なので、二人であたふたしながら生きてます。
またブログを楽しみにしております。
うちは二次障害(不登校)があってからの診断でした。
それまで検診にも引っかかることもなく
学校もほとんど皆勤で元気に通っていました。
小5の途中からどんどん登校出来なくなり
完全不登校になった頃に
「朝起きられないのは起立性調整障害かも」
くらいの認識で児童精神科にかかると
先生は子どもと少し話をしてから
「この子は年齢的に少幼く、話をピンポイントで理解するのが難しいようだね、調べてみようか」
その後検査や問診であっという間にASDの診断が出て
驚愕しました。
でも、特徴を知ると確かに全てに当てはまっていました。
それまでの私の中での「結構個性ある子だなぁ、かなりマイペースだなぁ」からの時々起こるトラブルや登校しづらさの答えが一気に出た感じ。
ああそういうことだったのか。
ようやくこの子の困りごとのおおもとがわかった。
もしも、「これは個性が強い」で済まさず
もっと早く受診してれば
二次障害が起こる前にこの子に適切な理解や支援が
出来ただろうにとも思いました。
まあ思春期から特性が強まる事も多いそうなので
こればかりは今更どうにもならないことではありますが…
とにかく、少なくともうちにとっては
診断がついたという事は
子どもにとって生きやすく過ごすための
道標を示してもらえたと思います。
余計なことではありますが
発達障害の診断が出た報告を
驚きと同時に明らかに「ああ私のせいで不登校になった訳じゃなかったんだ」という安堵の表情が隠せなかった
担任の様子にモヤモヤしました。
うちは学校側から推奨されて受診したのでは
ありませんが、学校側してみれば受診結果を
こういう側面で捉える目的もあるのかなあ
なんて。邪推ですかねー。
私も常に頭の片隅に置いています。
息子を発達障害に仕立てているのは私ではないか?と。
"特性なんて気にしすぎだよ""そんなに気にしなくても○○(息子)ならなんとかやっていけるよ"など言われると余計に思います。
けれどそれなら今やっている配慮がなくなったとき、この子はどうなるんだろう?
特性が目立たなくなり、トラブルもなくなるとは考えにくいです。
状況にもよりますがやっぱり相手に理解を求めることが必要になってきます。
理解や配慮を求めるときに発達障害や特性などのワードがあると話を進めやすく感じます。
最終的には本人にとってベターな対応を探していくことになるのでそのころには発達障害うんぬんはあまり関係なくなっていくのですが、とっかかりのときには大事かなーと思います。