ASD (自閉スペクトラム症)とHSC (敏感な子)の違い。
どう違う?
どう見分ける?
これはもう、大きな命題でして。
完全にボヤきなんだけど、
考えれば考えるほどわからねぇ!
以前書いたこの話。
これが今のところの僕の見解。↓
「自分は自分(他の人とは違う)」って感覚が、
だと思っている。
これは今でも変わらない。
んだけど。
じゃあ目の前のこの子がASDなの? HSCなの? ってなると、考えれば考えるほどわからねぇ!
ASDには色々な特徴がある(こだわりとかかんしゃくとか興味の偏りとかコミュニケーションとか)。
その中で僕は、ASDの本質的な特徴は、
人に関心がない(薄い)
↑これだと思っている。
人に関心がない。
つまり目の前の興味の対象が全て。
「相手も人、自分も人。
だからその間にはコミュニケーション(関係性とか相互作用とか)が存在するよね」
という感覚がない(薄い)。
ゆえにコミュニケーションが難しい。
人との関わりを求めないので、興味を持った対象物(電車とか標識とか数字とか)にのめり込んでしまう。
定型発達児は、モノよりもヒトに興味を持つように出来ていると感じる。
おもちゃだけでは飽きちゃって、友達と遊びたいっ! となる。
比較してASD児は、その感覚が薄い。
好きなおもちゃ(とか感覚遊びとかこだわりの対象物とか)にずーっと没頭していられる。
「ヒト」にこだわる場合でも、その「ヒト」を対象物として見ているので、嫌がられても執拗に追いかけ回しちゃったり。
「自分も意思があり、相手にも意思がある」という感覚が薄いのよね。
人に関心がない(薄い)。
ここがASDのコアと考えると、そこから派生して「自分にも関心がない(薄い)」ことに合点がいく。
「自分」って、他の人との関係性の中にしかないからね。
「自分」を意識するって、他者との関係の中でしかできない。
他者がなければ、同時に自分もない。
この「自分」のなさが、ASDの一番困るところだ。
「あなたはどうしたい?」
これが通用しないから。
目の前の即物的な話なら「YouTube見てたい!」と即答できるんだけど、長期的に、
となるともうお手上げ。
この辺の意識って、人との比較なしにはなかなか難しい。
支援する側として、もっとも困ってしまう部分だ。
HSCの本質は、
自他境界が薄い
これだと思う。
「自分は自分、それ以外はそれ以外」
この感覚はしっかりあるんだけど。
でも外(自分以外)を容易に取り込んでしまうというか。
HSCの自他境界について考えるとき、僕は頭に浮かぶイメージがある。
細胞膜って知ってます?
何を突然?
理科で習ったでしょ?
習ったよね?
僕は理系なので説明すると(ドヤァ)、
自分(細胞)と、自分じゃない(外界)を隔てている膜だ。
↓こんなヤツね。(画像お借りしました)
この膜の中は細胞! という境界。
中身(自分)は外に出さないようにしながら、必要な物質(栄養とか)は上手に取り入れて、不要なもの(老廃物とか)は上手に捨てる。
エネルギー(ATP)を使いながら、この調節をしてるんだよね。(ドヤァ)
この膜が壊れると、細胞は形を保てないわけだ。
で。
HSCはそれ以外の人と比較して、この膜のバリアが緩いイメージ。※個人的なイメージです。
外の物を容易に取り込んじゃう。
大きい音はびっくりするし、いろんな刺激が入ってくるので疲れちゃう。
非HSCは、自分に不要な刺激は膜の内側に入れない。
必要な情報だけ厳選して入れる。
だからザワザワした空間でも、会話している相手の話が聞ける。
不要な音を無意識にシャットアウトするわけだ。
これがHSCでは、全部の音が入ってきちゃう。
そりゃ疲れちゃう!
他人の感情も入ってきやすいし、自分の感情も逃げていきやすい。
だから人の感情に振り回されたり、「自分はこうしたい」という主体性が迷子になったり。
細胞膜がゆるいというか、薄いというか。
そんなイメージを僕は抱く。
※あくまで個人的なイメージです。
HSCとASDの見分けは、僕には非常に難しい。
特性の強いASDなら、僕にもわかる。
細胞膜の話で例えると、この子には細胞膜がない!
核もゴルジ体もミトコンドリアも、全部がビチャーっと拡がっている感じ。
境界がない。
自分の核も他人の核も、全て混ざり合っているイメージ。
アメーバを、もっと境界をなくした感じ。
他の人の細胞も栄養も老廃物も渾然一体となり、ミキサーにかけた感じというか。
だから、「ここに栄養がある!」と思えば、何も気にせず取りにいっちゃう。
他の人の領分でも、今の状況にそぐわなくても。
興味があれば突っ走る。
この説明で伝わる?
でも、そこまででもないASDの場合。
なんとなーく細胞膜がある。
薄いけど、でもある。
一応「自分」「他人」の区別がある。
ふとした折に他人と混ざっちゃったりするけど、でもある。
場面に合わず、外界を受け入れたり、自分が漏れ出たりはあるけど。
で。
この状態、HSCに似てません?
細胞膜がゆるい状態(つまりHSC)に非常に似ていると感じる。
ASDは細胞膜がなく(あっても薄くて)、取捨選択をする機能がほとんどないイメージ。
自分と相手の区別がない(薄い)
対してHSCは、ゆるい細胞膜で必死に取捨選択しているイメージ。
自分と相手の区別はある(異物を必死に排除するんだけど、すぐ入ってきちゃうけど)
特に、ASDが成長に伴い「自分」を確立しようと努力したケース。
経験から「自分は自分、人は人」と理解したケースね。
社会適応するために、細胞膜を構築するじゃん?
自分と外界の、取捨選択をしようと努力する。
「人は人、自分とは異なる」という前提で動こうとするでしょ?
これ。
HSCとソックリじゃん?
もう、めっちゃ分からん!
もともと膜がゆるくて頑張って排出しているのか(HSC)、
もともとは機能の無い膜に後天的に排出機能を付加しているのか(ASD)。
さっぱりわからん!
僕にはさっぱりわからない。
他の方がどうやって区別してるのか知りたいところ。
まぁ、「診断するならASDです」でいいのかもしれないけど。
HSCは医学的な概念じゃないからね。
どっちにしても、
「ASDだから」「HSCだから」ってレッテルを貼らず、その子の特性をよく見てください
ってことでファイナルアンサーなんだけど。
でも、わからんなぁ。
わからんよなぁ。
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途中で送ってしまいました笑
先生がHSCのブログで書かれているそのままな特性なので、学校は疲れ果てます
二人を見ていると根本的なところから違うと思います
出発点が違うかんじ
HSCはコミュニケーションに何の問題もなし
HSCは診断が下りず
似たようなでも全然違うASDとして診断が下るくらいなら医者には行かないと選択している方が多いのではないでしょうか?必然的に臨床が少なくなりますね
自分がある薄ーーいASDかなと思われる主人と
HSCと思われる子供がいます
主人は相手に思いやりがない気がする
あったとしてもKYな言葉がくる
かたや子供は大丈夫?ときちんと心配してくれます
でもまわりに敏感で癇癪があり先生か
愚痴になってしまったかもしれません。
ウチの子は7歳でASDアスペルガーの診断なのですが、自己主張をするので自己はしっかりあるんだと思います。まわりもそれなりに見えてはいるのかなと思います。自分はこれがいい、周りの子は違うことがいいようだ。でも自分の気持ちを優先したいんだ!という考えなのかなと感じてます。相手の気持ちを考えさせた時に「それはそうだけど、そうなると僕が嫌なつらい気持ちになる!」と言われたので。細胞膜はあるけど、他人のものだとわかっているけど、欲しいからもらいました、ごめんなさい。と後から謝るタイプ…って書いててなんだか周りから見るとわがままにしか見えないよなぁと凹んできました。アスペルガーについても先生の見解を読んでみたいです。
私自身として考えても本当に区別が難しいです。
自分の体感として繊細さがあると思うからHSPなのかな?と最初は思いました。
でも過剰適応しているASD女子の例を目にすると、そっちかもしれない、とも思うのです。
特に、自分の感覚が周りとズレているのは解っているし周りからはみ出して目立ちたくないと思っています。
なので、一生懸命周りの声を聞き、視線を感じ、望まれる行動をするよう努力します。
ここでうまく立ち振舞って、自分のズレを抑えてよく気がつく親切な人として行動すると、HSPっぽくなるような感じがします。
ありのままの姿みせるのよ~で気持ちが楽になることもあれば、もっと本当の自分の気持ちを表現して!とか言われると困ってしまうところもあります。
はっきり区別のつかない子供には、両方の可能性を残して観察を続けて臨機応変に対応した方がいいのかもしれないですよね。
共感力の有無に一票です。そしてそのベースはやはり、ASDは他人や自分の感情の認識が弱い事があると思います。
P先生の以前のデパートに沢山並んだジャム?の瓶の記事を思い出しました。
みんなのためにひとつだけ買ってきてと頼まれたとします。いつも同じ瓶を選ぶのはHSCもASDも同じ。
構成員の一人一人の好みと苦手、表情まで脳裏に浮かんで、みんなの異なる好みに疲弊しながら、結局いつも同じ無難な瓶を買うのがHSC。しばしばなぜなのか自分でも説明できないけれど、買う瓶が決まっているのがASDなのかな?と思いました。
ある程度コミュニュケーションが取れて、集団でうまくやりたい気持ちがあるASDであれば、どれを選べばいいか誰かに聞くことはできる。ある程度学習能力のあるASDであれば、いずれ過去にその集団でどんな瓶が選ばれたかを分析して、それを買うこともできる様になるのでしょう。ただ、他人の感情がよくわからないまま、なぜそれが選ばれているのかまで、その都度の周囲の状況も含めて分析するのは、相当能力が高くて経験を積まないと難しいので、時々ずれる。誰かに教えてもらう場合でも、教えてくれるのが善意を持たない人だと、関連記事に書かれている様に「家来のように」なっちゃうのかもしれません。「定型」(多数派)なら好みのままに適当に選んでも、それをいいと言ってくれる人が周りに一定数いるのでしょう。
定型、非定型に関わらず、自分が選ぶものを喜んでくれる、たまたま「好みが合う」人や、大抵のものは喜んでくれる「好みの幅の広い人」達と過ごせれば、それが一番幸せですね。
ASDの場合はとにかく相手が意のままにならないと気が済まないのだと思います。
うちはいつも年子の姉弟がトラブルになります。
ASDの弟は1人でゲームもするけど、そのうち飽きて人を取り込もうとします。
完全にシトです。
誘って断られると癇癪起こして大爆発します。
でも、家族に対してだけです。
特性微妙に薄いので外では駄目だと判断して他人に対してはそうはなりません。
大爆発があるかないかの違いじゃないでしょうか?
ちなみに薄いのでアニメでも感情移入して泣くことあるし、いじめられてたり馬鹿にされてるシーンのテレビ見るのは極端に嫌がります。
拘りと癇癪があるかないか?が境界線では?
以前のアメブロの記事でもコメントさせて頂いた、それぞれASDとHSCと言われている双子の母です。
長男がASDと診断されていますが、軽度です。まさにHSCなのかASDなのか判別が難しいゾーンにいると思われます。
そんな双子と日々生活しているので、先生のわからなさ、めちゃめちゃ良くわかります。そして、概ね先生の仰る通りのように感じます。
他者の感覚がすごく入ってくるけれど、自我がはっきりしているHSC次男。
ASD長男は、他者にあまり関心がなく、自分のこともいまいちわかっていない感じです。(自分の考えについてのアンケートをやると「どちらともいえない」だらけ)
長男は空気も読むし、敏感さは次男と似ているし、やっぱりHSCなの?と思うことも多々ありますが、先生の見解を読むとまさにその通り。やっぱり長男はASDなのだと納得します。
一方、HSCの次男については、実はASDなのかな?と感じたことは一度もありません。ピタッとはまっている感じ。圧倒的な共感力の高さのせいかもしれません。
どちらにしても、それぞれの特性を見るということに尽きますね。対応するうえで、ラベリングする意味はあまりないなと思っています。
大人のHSPとASDって、全然違う印象があります。
HSPは常識人、優しすぎる人、繊細。
ASDは、個性的、独特。
子供の時は、純正じゃないと、正直わからないイメージです。
要素あり、位な感じだと、区別がつかない。
感情移入しやすい、他人の状況を自分のことのように怖がったり、泣いたり。はしゃいだり。テンションの差が大きい。雑に扱うと気づくし、傷付く。
診断のせいで、なんでも悪者扱い、邪魔者扱いする大人を真似て、周りの子も同じように接する。
結果、自分の気持ちと反対の、周りの思惑通りの方を言い、更には割り切れずにキレる。
親からしたら、つまんないケンカ売られても、我慢して買わずに言葉で訴えてるのに、それでも嫌がらせされたら、誰でもキレるだろうが!という状況でも、今日も怒りっぽかったデスと報告を受ける。
謝罪して、感謝を伝え、本人の気持ちを分かりやすく代弁して、対応方法を誘導しながら気付かせる。この面倒臭さったらない。
あほらし、言われなきゃ分からんか?と思いながら、ニコニコ愛想笑い。
医者曰く、私も旦那も、息子と同類らしく、だから、手に取るように気持ちが分かる。けど、他人には、なぜこの反応?なぜ今傷付く?と分からないらしい。それは分かる。他人だから。
周りはASDだろうとHSCだろうと、結局、どうでもいいし、気にしてるのは親だけ。
だけど、HSCの子にASDと同じように接するのは辞めて。ほんとに傷付いて、メンタル壊れるから。
お医者さんにとっても、診断はどっちでも同じなのでしょう。
周りの困り感はどっちでも同じだから。
でも、本人にとっては真逆。
どっちか分からないなら、適当にスペクトラムとか診断しないで欲しい。そう思うこともあった。
けど、この診断のおかげで療育行けた。意味ないと思うこともあったけど、意味あることもあった。
友達の気持ちを想像するとか、最初からできてるし!
けど、他の子の答えを聞いて、そういう風に思う子、あるいは、分からない子もいるんだと本人が感じられた点はメリットでした。
それに、いろんな子への接し方など、経験値を増やせたおかげで、多少、傷つきにくくなった。
HSCかどうかは、分からないけど、傷付きやすい我が子の場合、ドン底まで落ちた自己肯定感でも、家庭での親のフォロー次第で、今じゃ、自信満々、学校も学童も楽しいとポジティブに過ごせてるということ。
家で勉強するのも、学校生活を楽しく過ごすためのものに過ぎない。
今までの療育も楽しく過ごすため。
本人が楽しければそれで良い。それ以上でも以下でもない。