芸能人の発達障害カミングアウトなど、よく耳にするようになった。
名を成した著名人でも、トーマス・エジソン、アルベルト・アインシュタイン、スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツ、トム・クルーズ……発達障害と言われる人は枚挙にいとまがない。
「発達障害は立派な才能だ!」
「いやいや、あくまで障害だ!」
いろんな意見を耳にする。
その辺、僕の個人的な意見を書いてみる。
あくまで個人的な見解です。
僕の中での言葉の意味合いは以下の通り。
才能:プラス、ポジティブな捉え方
障害:マイナス、ネガティブな捉え方
個性:比較的フラットな捉え方
実際どうなの?
人による
と、思う。
こう言っちゃ身も蓋もないんだけど、人による。
発達特性を強みとして『才能』に昇華できる人もいる。
障害はどこまでいっても障害で、生きづらい要因でしかないという人もいる。
個性と捉え、うまく適応している人もいる。
人による。
色々だ。
才能か、障害か、個性か。
これらを分けるのは下記二つだと思う。
豊かなイマジネーションが独創性となる人がいる。
絶対的な才能として、輝かせることができる人。
印象に残っているのが、どこかで読んだ米津玄師さんのインタビュー。
できるだけ多くの人に共感される音楽を目指している、と語っていたように記憶している。
独りよがりにならない、みんなに愛される音楽を、と。
彼は自閉症と公表している。
自閉症の持つ素晴らしいイマジネーション。
そのままでは独創的すぎるので、理解しやすい表現にするよう心がけているものと、僕は理解した。
「ジブリみたいな音楽を作りたい」
そう言っていたのが印象的だった。
国民みんなに愛される、ジブリ映画のような音楽。
マイワールドを才能に昇華した素晴らしい例だと思う。
反対に、マイワールドがどこまでいってもマイワールドでしかない自閉症児も存在する。
米津玄師さんに他人の目という意識がなければ、あの音楽性も独創的すぎて評価されなかった可能性は、大いにある。
何らかの世界観を持っている様子の自閉症児が、他人からは理解されず、才能ではなく個性止まりだったり。(あの子何考えてるか全然わかんないよね、的な)
場合によっては障害となることだって、全然ある。
マイワールドが強すぎるせいで社会適応が悪く、疎外され、非難され、本人がいたく傷つくとか。
こんな場合は『障害』でしかないだろう。
他の特性も同様。
ADHDの旺盛な好奇心も、うまく生かせば『才能』だし、行き過ぎれば『障害』となる。
過集中もそう。
学習障害だって同様だと思う。
どんな特性も、絶対に生かせるわけじゃないし、絶対に生かせないと言い切ることもできないだろう。
同じ特性が、環境によって『才能』にも『障害』にも『個性』にも変化することはよくある。
例えば多動。
ある場所ではいつも叱られる『障害』だ。
でも別の場所では「元気な子ね〜」という『個性』の範疇たり得る。
例えば感覚過敏。
音や光、味や匂い、痛覚、触覚……そんなものが人より過敏な場合。
行動が制限される『障害』でしかない場合もある。
でも、ソムリエなど微細な感覚を感知する仕事についたら、他の人にはない『才能』だ。
「発達障害は素敵な才能だ!
その才能を生かして、〇〇(著名人・有名人)みたいになれ!」
ある人にとっては救いだ。
でも、ある人にとっては苦痛でしかない。
みんながみんな、エジソンになれるわけじゃない。
結局、発達障害児も定型発達児も、同じなんだと思う。
定型発達児が、定型発達なんだからみんな社会的に成功するかというと、そうじゃないでしょう?
成功する人もいるし、しない人もいる。
「東大合格者は毎年3千人もいるんだから、あなたもできるよ!」
いや、無理だから。
それと同じだと思う。
東大に入れる人もいるし、入れない人もいる。
発達特性を生かして成功する人もいるし、邪魔でしかない人もいる。
そして体感的には、『才能』にまで昇華できる人の方が少ないと思う。
配られたカードで勝負するっきゃないのさ
僕の好きな言葉。
スヌーピーの名言。
結局、これしかない。
配られたカードで勝負するしかないんだ。
この子には、発達障害のカードが配られた。
武器として使うのか、使えそうなのか、使えそうなルールの場所に身を移すのか。
それとも、発達特性のカードは切らず、別のカードで勝負していくのか。
みんなに合う正解なんてない。
一人ひとりが戦略を練っていくっきゃない。
配られたカードを嘆くより、そのカードでどう戦うか考えた方が建設的。
僕はそう考えている。
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米津さん、大好きです!(関係なくてすみません)
まさに他人の目。初期のアルバムと比べるとどんどん変化しています。
解説ありがとうございます!